●因幡荒神山城
住所:鳥取市鹿野町河内
駐車場:なし
遺構:曲輪・土塁・竪堀
標高:466メートル/比高:276メートル
築城年代は不明だが、城のそばを三徳山方面に抜ける滑石坂と佐谷越が通る因伯の要衝だった。因幡民談記や因幡誌によると城主は武田高信の家臣・矢田七郎左衛門と草香部氏だという。天正9(1581)年頃、鹿野城主・亀井茲矩からの年貢の催促に矢田氏の支配する農民が応じなかったため、茲矩の攻撃を受けて落城した。矢田氏は倉吉市に落ち延び商人となって繁栄したと伝わる。
元亀2(1571)年5月、当城には尼子再興軍に味方する矢田氏が籠もっていたが毛利軍の山田重直が落としている(「彼兵粮不得差籠□□(荒神ヵ)山之儀、頓落去候事、旁御才覚之故候、誠無比類候、殊荒神山内之計略之子細候つる、我本丸ニ火を懸、焼崩候て、則時ニ落去之由候、其表之儀者不及申候、此表迄之競候、矢田事被討洩候て無曲之由」『山田家古文書』)。織田と毛利の戦いが激化してきた天正8(1580)年には織田に反発し鹿野城を出た一部の兵が当城に籠もった(「藩中諸家古文書纂」)。天正9(1581)年6月には毛利軍が織田と南条に備えるため兵と兵糧を補充し、吉川元長が普請を命じている(「吉川史料館所蔵文書」)。その後は不明だが鳥取落城後は茲矩や羽柴秀吉によって攻略されたと思われる。
(祠から更に上に登ると平場に出る。周囲に城の遺構がないことから、おそらく前に荒神さんがあった場所で城とは関係がないと思われる。ここに兵がいても孤立するだけだし…)
(平場の北側を登る以外、まともな道がない。検索すると西から直登した方もおられるようだ)
感想:降りる際、迷ってしまった上に滑って大変でした。その砂まみれのまま鳥取市であった午後の講演会に出ました。東にも曲輪群があったらしのですが危険なので行ってません。
入口を教えて下さった地元の方、ありがとうございました!!