伯耆往来をあるく(下市~御来屋)に参加した(旧中山町編)の続きです。
休み石を過ぎて数百メートル先にある嫁ごろし坂に到着。井戸が涸れた際、池からこの坂を登って水を運んだことからそう呼ばれたらしい。農業用水で苦労したところは大体、嫁ごろしと呼ばれる。
・弁慶太刀懸けの清水・・・ここで弁慶が太刀をかけて水を飲んだという。旧名和町にも弁慶伝説があるのか。
線路を越えて南側に移動。ここでトンネルの和名が隧道(ずいどう)だと知った。隊道だと思うよね。前も調べた気がするけど忘れてしまって…。
(後日訪れた隧道。北側は昭和に通った国道9号の下にあることからコンクリート、南側は明治に通った山陰本線の下にあるからレンガ造りになっている。案内された学芸員の方のお気に入りらしい)
・にごり池と五輪塔・・・昔からある堤らしい。この五輪塔が気になったのだが、にごり池から見つかったこと以外は分からないそうな。
伯耆往来だった上坪地区の街並み。前谷地区と似ており自分がどこにいるのか分からなくなる。
・氏殿権現道道標・・・かつて名和長年を祀っており現在は名和神社奥宮である氏殿権現への道を知らせるためのもの。安政5(1858)年、湯梨浜町野方の長右衛門さんが建てたのだが、なぜ湯梨浜町の方が建てたのかは知らない。
側には大山道道標も建つ。
・佐渡五輪塔・・・佐渡の商人がこの付近で亡くなったため建てられた供養塔。その霊が病人の夢に現れ治したことから流行病を治す神様として信仰されたという。現在はすっかり忘れ去られている。旧名和町には佐渡五輪塔が加茂地区と古御堂地区にもある。
同じ大山町の佐渡五輪塔と言えば私は荘田佐渡五輪塔が最初に頭に浮かぶ。あとこれ五輪塔じゃないよな…と皆さんが話していた。
・くじら橋・・・ここを渡る際に使用していたのだろう。鯨に関係があるという伝承がある。公事料(荘園制で年貢以外の雑税や夫役(ぶやく)の総称)との関係も指摘されている。ここが現在の大山町の御来屋・名和・西坪の境であることから、ここで公事料を取り立てていたのだろうか。
取りあえず鯨の化石ではないらしい。
感想:天気には恵まれなかったけど、ほとんどが史跡巡りに行くような場所じゃないので新鮮だった。自分の癖なのだが主催者になんでもかんでも質問するので、さぞ迷惑していたと思う。申し訳ありません。
楽しかったので断られなかったら次回も是非参加したい。