多賀是兵衛の墓(亀井家の朱印船貿易の船長)

●多賀是兵衛の墓
住所:島根県益田市飯浦町
駐車場:なし

 天文3(1534)年、因幡の漁村に生まれた多賀是兵衛は漁師となり九州方面にまで出航した。そこで日本国外の話を聞いて海外への憧れを抱いて大型船の航海術を学ぶ。亀井茲矩が因幡鹿野城主となり豊臣秀吉から朱印船貿易の許可を得ると、安南(ベトナム)への貿易船の船長を務めた。元和3(1617)年、亀井氏が津和野を含む石西地方に移封されるとそれに従う。石西に移った是兵衛は希望した飯浦に住み美濃地と合わせた2つの村の庄屋となった。元和5(1619)年に亡くなる際「朝鮮半島が見える高台に埋葬して欲しい」と希望し、高台の人形峠の一本松の麓に葬られている。

(入口。そばを二匹の猿が横切って行った)
入口

(墓石。事蹟を読むと八世の孫が文化5(1808)年に建て直している。諱は亀井茲矩(之子)から一字を賜り子久(たねひさ)と名乗って朝鮮出兵にも参加していた、と刻んであった)
墓石

(平成8(1996)年5月に落雷があり人形峠の一部が燃えたため、是兵衛の墓をお参りした後に火元を探したところ高さ約12メートルの松が燻り続けていた。(是兵衛のおかげと思ったのか)翌月には道を整備し、今でも整備されて続けている。これが地域おこしの御神木になっている)
御神木

(墓の辺りから見た日本海。方角に沿って地図を見ると確かに朝鮮半島に辿り着く)
日本海

感想:道は整備されていますが山城のような感じの場所なので、それなりの装備で行きましょう。



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