阿川八幡宮(大内氏と阿川毛利家から庇護を受けた神社)

●阿川八幡宮
住所:山口県下関市豊北町阿川3710
駐車場:不明

 祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。社伝では漁師が八幡大神を網で捕らえたが怪しんで何度も捨てたが揚がってきて「我は八幡大神だ。そこの浜辺に小さな祠を建てて祀れ」との神託を告げたため、神宮崎(阿川八幡宮の北に800メートルの場所にある岬)に祠を建立したのが始まりだという。民間の伝承では御神体が海から神宮崎に揚がった椀であるとなっている。阿川地区が海上交通の要衝だったため開発に伴って勧請されたというのが現実的な見方である。当地は東に100メートルほどの場所に沖田川が流れ、阿川八幡宮は西の立目川との間にある三角州になっていた。弘長年間(1261~64年)と応永年間(1394~1428年)の棟札があったというが失われている。
 戦国時代は大内氏や毛利氏の崇敬を受けたというが具体的なことは不明。ただ安永5(1776)年の修造の際、梁と柱の間に大内家の家紋・大内菱があり大内氏が修造した可能性がある。中世の終わりには社領が8石あったという。慶長18(1613)年、阿川毛利家の当主・毛利元鎮が社殿を再建し、その後阿川毛利家の歴代当主によって四回修造が行われ、現在の社殿は弘化2(1845)年に修造されたものである。社殿の裏のイヌマキ巨樹群は山口県指定天然記念物になっている。

(入口)
入口

(延宝6(1678)年に建立された鳥居。長州藩内には花崗岩を加工する技術を持っている者がいなかったため、大坂にいた石工・九郎兵衛に頼んでいる)
鳥居

(拝殿など)
拝殿

(本殿)
本殿

(天満宮)
天満宮

(興義隊士髻塚。四峡戦争で小倉口で戦った興義隊の戦死者の髻(たぶさ。髪の毛を頭上に集めて束ねたところ。もとどり)が埋めてある。昭和51(1976)年に建てられた)
興義隊士髻塚

(八栄社。阿川毛利家との関係が分からなかった。もしかして先祖の吉川元春が再建した広島県北広島町の八栄神社を勧請したとか・・・)
八栄社

参考文献:山口県の地名、防長風土注進案 第18巻、豊北町史2、豊北町史

感想:八幡大神が網に捕まった話は『防長風土注進案 第18巻』に載っていたのですが、どんな姿かは記載がなく「八幡太神ハ往昔浦ノ漁夫是ヲ網ノ中ニ獲タリ」とだけしかなかったです。子人の姿でもしていたのでしょうか。式年祭では最初の社地である神宮崎に神幸があるそうです。
 イヌマキ巨樹群は興味がなかったので見ていません。



八坂神社(祇園社。大内氏や長州藩から庇護を受けた神社)

●八坂神社(祇園社)
住所:山口県長門市仙崎祇園町1342
駐車場:あり

 祭神は奇稲田媛命、素戔嗚尊、蛇毒気神。霊亀2(716)年、遣唐使の吉備真備が唐で素戔嗚尊の霊験を感じ、帰国後に聖武天皇の勅宣により青海島(当社の北側の島)の王子山に創建されたと伝わる。建保4(1216)年、大風によって倒壊したため洲崎(同市仙崎洲崎町)に移転した。康生(1456)年、長門の小守護代の家柄である南野備前守資綱が縁起を奉納している。大内氏が支配した時代には祭礼時に能を奉納する習わしがあり、その頃のものと伝わる5面の能面(市指定有形文化財)が社宝としてある。天文20(1551)年には大内義隆が太刀などを奉納した。
 南野備前守資綱の子孫は、近世に瀬戸崎浦の鯨組(鯨漁の組合)の網頭として活躍している。瀬戸崎鯨組は正月の鯨突きぞめ儀式では「祝いめでたや若松さまよ、枝も栄える葉も茂る」などと唄いながら祇園社に参拝した。寛文12(1672)年に瀬戸崎の大火で被害を受けたため、延宝6(1678)年に長州藩の費用で現在地に移転している。長州藩の時代には藩主が湯本などでの入湯や狩りの際に参拝し初穂料の奉納を行った。明治2(1869)年に祇園社から八坂神社に改名している。
 社宝として上記の能面の他に近世後期に奉納された捕鯨絵図(市指定有形文化財)がある。毎年7月下旬に行われる仙崎祇園祭は一週間にわたって行われ、素戔嗚尊が胡瓜畑に入って難を逃れた古事から祭りの期間中は胡瓜を食べてはならないとされている(同様の風習が各地に残っている)。

(南の鳥居)
南の鳥居

(境内の稲荷神社)
稲荷神社

稲荷神社

(昭和12(1537)年に寄進された手水舎)
手水舎

(東の鳥居。こちらが正面だった)
東の鳥居

(このミニ鳥居が何なのか分からんかった)
ミニ鳥居

(拝殿とその中)
拝殿

拝殿

(幣殿と本殿)
幣殿と本殿

参考文献:山口県の地名、山口県の歴史散歩、長門市史 歴史編、長門市史 民俗編
、現地の案内板

感想:駐車場が分からず神社の周りをグルグル回っていた記憶があります。



杜屋神社(長門国三ノ宮。赤間関(下関)の代官・堀立直正が再建)

●杜屋神社
住所:山口県下関市豊浦町黒井1541
駐車場:鳥居周辺に駐車スペースあり

 主祭神は三穂津姫神。長門国三ノ宮。延喜式神名帳の豊浦郡の項に村屋(ムラノヤ)神社があり、別本では読み仮名に「モリヤノ」とあるため杜屋神社と同じと考えられている。白雉2(651)年に大和の杜屋村から勧請して創建されたという。室津地区(同町室津)などの中心的な神社だったようで長門国内の領主から寄進があった。
 天文4(1535)年、大内義隆が太刀を寄進しており、太刀は残っていないがその際の文書が現存している。永禄3(1560)、毛利家から赤間関(下関)の代官だった堀立直正の息子・亀松丸(藤右衛門尉)に杜屋神社の大宮司職が与えられている。永禄10(1567)年、直正が造営を行った。同年だと思われるが毛利元就が直正に対して造営を独力で行ったことへの労いと、元就の病気平癒を祈念してくれたお陰で快復したことに対しての祝意の書状を送っている。明治42(1909)年に二つの八幡宮を合祀した。寺宝に木造随身倚像や杜屋神社文書(共に下関市指定有形文化財)などがある。

(鳥居)
鳥居

(黒井川にかかる厚母橋)
厚母橋

(神門)
神門

(拝殿)
拝殿

(幣殿と本殿)
幣殿と本殿

(歌碑や忠魂碑など)
歌碑や忠魂碑

(境内の空き地。神事などを行う場所だろうか)
境内の空き地

参考文献:山口県の地名、内海文化研究紀要 第16号、山口県風土誌 第9巻、豊浦郡郷土誌

感想:住宅街から神社に入る道が狭くて怖かった思い出があります。