仏日山覚天寺跡(長府藩家老・三沢家の菩提寺)

●仏日山覚天寺跡
住所:山口県下関市豊北町田耕(字 寺ノ前耕番)
駐車場:不明

 曹洞宗。先祖伝来の地である島根県仁多郡を支配していた三沢為虎だったが、天正17(1589)年に毛利輝元の命で長門に移封となり厚狭郡内で1万石を与えられた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利家が減封されると、長府藩主・毛利秀元の家老となって2700石の領主となり、田耕村(現在の豊北町田耕)を支配する。慶長15(1610)年に為虎が亡くなると息子の三津為幸(元幸)が田耕村の高林寺に葬り、為虎の法名・雲叟覚天大居士から覚天寺と改称し三沢家の菩提寺として整備した。元和3(1617)年に為虎の夫人(宍戸元秀の娘で毛利輝元の妻の姪)も亡くなったため覚天寺に葬られている。
 元和6(1620)年、跡継ぎが決まらないまま為幸が亡くなったため三沢家は親族が相続したが、田耕村2000石は藩によって没収された。だが、その後も覚天寺は菩提寺として三沢家の庇護を受ける。明治6(1873)年、廃藩になると覚天寺は山陽小野田市に移転されたが、旧臣の要望で下関市長府町の功山寺の末寺・月渓院を跡地に移転した。檀家がないため旧臣の後裔が管理していたが、平成時代後期に倒壊している。

(入口)
入口

(参拝した際には残っていた山門)
山門

(倒壊した本堂。GoogleMAPの航空写真で見る限りだと、このままのようだ)
本堂

(墓所への標柱は倒れていた)
標柱

(三沢家墓所。『豊北町史2』によると『上部のみたくさんあるが、その中で最も大きく上部がしっかりしているもの』が為虎の墓(供養塔?)らしい。分かりづらい文章だが写真の手前の宝篋印塔のことだろうか)
三沢家墓所

参考文献:山口県の地名、豊北町史、豊北町史2、戦国武将 三澤氏物語

感想:本堂の倒壊にはショックを受けました。参拝しておいて何ですが、今でも撤去されていない場合は倒壊した後を通って墓所に行く必要があるため危険です。しかも裏庭には獣用の罠があったため猪や熊が出る可能性があります。



大雲山日頼寺(毛利元就の菩提所)

●大雲山日頼寺
住所:山口県下関市長府侍町1-10-1
駐車場:あり

 臨済宗。元は貞和4(正平3、1348)年に瑞雲が開いた天台宗の小比叡山極楽寺だったという。中世に毛利氏が長門を支配した時代には54石の寺領があった。慶長年間(1596~1615年)、長府藩の初代藩主・毛利秀元が仏智大照を東福寺から迎えて臨済宗に改宗し、祖父・毛利元就(法号・日頼洞春大居士)の菩提所とし日頼寺と改称する(改称は天正年間説あり)。
 長府藩の3代藩主・綱元は延宝3(1675)年に客殿を建立し、宝永元(1704)年には鐘楼堂を建立した。明治2(1869)年に廃寺となったが明治4(1871)年に大雲山極楽寺として再興し、明治22(1889)には日頼寺に復している。寺宝として足利尊氏・大内盛見・毛利(穂田)元清などの文書や元就の遺品(日頼寺文書附毛利元就遺品。下関市指定有形文化財)がある。

(山門)
山門

(参道)
参道

(本堂)
本堂

(小比叡山 鎮守 山王社。かつて境内に鎮守社の小比叡(こびえ)社があり長門の得善保(周南市)に社領があった。大内義弘が応永6(1399)年に出した極楽寺に社領の管理などに関する文書が残っている)
小比叡山 鎮守 山王社

(日頼寺から長府の街並みと瀬戸内海を望む。中央の島は干珠島で壇ノ浦の戦いでは源氏が本陣を構えたらしい)
長府の街並みと瀬戸内海

参考文献:山口県の地名、下関市史 原始-中世、下関市史 藩制-明治前期、山口県風土誌 第9巻、現地の案内板

感想:境内(?)に仲哀天皇殯斂地なるものがあったそうですが、現地の案内板を斜め読みしただけで気が付かなかったので行ってません。



細声谷(大内輝弘軍の亡霊伝説)

●細声谷
住所:山口県山口市秋穂東
駐車場:なし

 永禄12(1569)年、毛利軍に敗北した大内輝弘軍は秋穂浦から逃げようとしたが船がなかった。そのため一部の兵士は近くの谷間に隠れ敵に怯えながら餓死する。それから谷間を通ると、か細い声で『追っ手の軍勢は通り過ぎたか』と兵士の亡霊が道行く人に問うようになったことから、細声谷の名が付いたという。

細声谷

細声谷

秋穂湾

感想:確認したので場所はここで合っていると思うのですが、何もないので一抹の不安があります。