讃岐羽床城(羽床氏の居城)

●讃岐羽床城
住所:香川県綾歌郡綾川町羽床下
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀
標高:82メートル/比高:21メートル

 藤原家成を祖とし在庁官人だった羽床氏の居城である。承久の乱で後鳥羽上皇に味方して庶流の香西氏に地位を奪われ所領も失った。南北朝時代には香西氏に従い北朝側として活躍し、戦国時代も当地の領主として力を振るう。
 天正7(1579)年、長宗我部元親に攻められ果敢に抵抗したが香川信景の仲介により降伏。その後、讃岐十河城攻めなどに加わり四国攻め後に元親が土佐一国に押し込められると讃岐を支配した仙石秀久に従った。だが天正14(1586)年の豊後の戸次川の戦いで当主・羽床資吉が戦死し滅亡する。

(全景)
全景

(水の手曲輪)
水の手曲輪

(井戸跡)
井戸跡

(本丸跡の土塁と書いてあるが切岸に見える・・・。写真を撮ってから数年経っているので忘れた)
土塁

(本丸)
本丸

(本丸跡に建つ祠。羽床氏を祀っているようだが詳細は不明)
祠

(城址碑)
城址碑

(虎口)
虎口

(下記の縄張図のⅡの曲輪のだと思う)
2の曲輪

感想:前は竹藪でしたが伐採され見学しやすくなったと聞いたので再訪しました。そうしたら今度は陽があたって雑草が生長していました。

参考文献:香川県中世城館跡詳細分布調査報告、日本城郭大系、綾上町誌

(縄張図)
縄張図


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讃岐雨滝城(安富氏の居城)

●讃岐雨滝城
住所:香川県さぬき市津田町津田・大川町冨田・寒川町神前
駐車場:登り口付近に駐車スペースが有るが、雨滝自然科学館の辺りで駐車して歩いた方が無難

 標高253メートル(比高210メートル)の雨滝山に築かれた山城。城主の安富氏は下総の出身で室町幕府の重臣・細川頼之に仕え、応安年間(1368~75年)讃岐に入り、長禄年間(1457~60)に雨滝城を築城したという。応仁の乱では細川四天王の一人として活躍した。その後、東讃の守護代になるが香西氏など大身の領主が多く統治は安定しなかった。
 元亀3(1572)年、安友盛定は三好長治の重臣・篠原紫雲と婚姻関係にあったことから両者で昼寝城主・寒川氏に圧力をかけ、虎丸城引田城を譲渡させる。そして盛定は虎丸城に移り、雨滝城は家臣の六車宗旦が城代となった。天正10(1582)年、中富川の戦いで長宗我部元親に敗北した十河存保が虎丸城に入ると盛定は雨滝城に戻る。翌年、元親が東讃にも侵攻。盛定は羽柴秀吉を頼って播磨に逃れ宗旦に守備を任せたが、宗旦は元親に抗しきれず降伏した。その後、安富氏は四国攻めで長宗我部軍が土佐に撤退すると仙石秀久に仕えたという。

(全景)
全景

(入口。登山道が整備されていた)
入口

(西端の切岸と曲輪。登りは左側に何段にもなった曲輪があった)
西端の切岸と曲輪

(虎口かな、と思って撮影)
虎口

(本郭)
本郭

(本郭に建つ祠。昭和34(1959)年に建てられたそうな)
祠

(本郭から東方面を望む。正面の港は津田港だと思う)
津田

感想:北と東にも遺構があったそうですが、道が無いので行きませんでした。
 城の入口まで車で行けますが道が狭いので止めておいた方がいいです。

参考文献:香川県中世城館跡詳細分布調査報告、寒川町史、大内町史、日本城郭大系

(縄張図)
縄張図


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昼寝城(寒川氏の居城)

●昼寝城
住所:香川県さぬき市前山
駐車場:登り口付近に駐車スペース有り

 標高461メートル(比高220メートル)の昼寝山に築かれた城。神櫛王の後裔で寒川郡と大内郡の領主・寒川氏の居城だった。応仁の乱では細川勝元配下で活躍。永正4(1507)年、寒川元家は細川氏の内紛の余波で阿波の細川義春の攻撃を受けたため、周防の大内義興に属している。
 大永3(1523)年、元家の子・元政は雨滝城主・安富盛方と塩木(塩ノ木)で戦い、大永6(1526)年には津柳合戦で三好元長を破っている。天文元(1532)年、十河氏を継いだ三好長慶の弟・一存と長尾表で戦い家臣が怪我を負わせた。一存が傷に塩を押し込んで藤葛を包帯代わりにして血を止め、のちに「鬼十河」と呼ばれたのはこの戦いである。やがて両者は細川氏の仲介で和睦し、天文9(1540)年に安富盛方が昼寝城を兵糧攻めにした際も細川氏の仲介で和睦している。
 天正2(1574)年、元政の子・信家は三好氏に属していたが三好長治との関係がこじれ昼寝城を攻められた。だが持ち堪え翌年にも長治に再度攻められるものの阿波の南方から土佐の長宗我部元親が侵攻してきたため三好軍は撤退している。その後、寒川氏は織田信長や豊臣秀吉に属して中富川で元親と戦うが、信家の弟・光俊とその息子の俊元は戦死した。天正13(1585)年の四国攻めの後は信家の息子・光永が仙石秀久に仕えたが、その後に讃岐の国主となった生駒親正には仕えず出家している。

(入口)
入口

(登山道には幾つもの石があった)
登山道

(山頂近くは石塁や道が崩れており危険だった)
山頂近く

(曲輪に到着)
曲輪

(西方の隅には祠(寒川社)が建っている)
祠(寒川社)

(城から北側の瀬戸内方面を望む)
瀬戸内方面

感想:年未詳ですが、讃岐に元親が侵攻した際、寒川氏が情報を提供しているという文書が残っているので、信長派と元親派に分かれたのでしょうか。上記の寒川氏の紹介は軍記物と系図を元にしているので、実際のところは良く分かりません。
 ここはとにかく山頂近くの道が危険。それなりの装備で行った方がいいです。

参考文献:香川県中世城館跡詳細分布調査報告、寒川町史、日本城郭大系

(縄張図)
縄張図


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