昼寝城(寒川氏の居城)

●昼寝城
住所:香川県さぬき市前山
駐車場:登り口付近に駐車スペース有り

 標高461メートル(比高220メートル)の昼寝山に築かれた城。神櫛王の後裔で寒川郡と大内郡の領主・寒川氏の居城だった。応仁の乱では細川勝元配下で活躍。永正4(1507)年、寒川元家は細川氏の内紛の余波で阿波の細川義春の攻撃を受けたため、周防の大内義興に属している。
 大永3(1523)年、元家の子・元政は雨滝城主・安富盛方と塩木(塩ノ木)で戦い、大永6(1526)年には津柳合戦で三好元長を破っている。天文元(1532)年、十河氏を継いだ三好長慶の弟・一存と長尾表で戦い家臣が怪我を負わせた。一存が傷に塩を押し込んで藤葛を包帯代わりにして血を止め、のちに「鬼十河」と呼ばれたのはこの戦いである。やがて両者は細川氏の仲介で和睦し、天文9(1540)年に安富盛方が昼寝城を兵糧攻めにした際も細川氏の仲介で和睦している。
 天正2(1574)年、元政の子・信家は三好氏に属していたが三好長治との関係がこじれ昼寝城を攻められた。だが持ち堪え翌年にも長治に再度攻められるものの阿波の南方から土佐の長宗我部元親が侵攻してきたため三好軍は撤退している。その後、寒川氏は織田信長や豊臣秀吉に属して中富川で元親と戦うが、信家の弟・光俊とその息子の俊元は戦死した。天正13(1585)年の四国攻めの後は信家の息子・光永が仙石秀久に仕えたが、その後に讃岐の国主となった生駒親正には仕えず出家している。

(入口)
入口

(登山道には幾つもの石があった)
登山道

(山頂近くは石塁や道が崩れており危険だった)
山頂近く

(曲輪に到着)
曲輪

(西方の隅には祠(寒川社)が建っている)
祠(寒川社)

(城から北側の瀬戸内方面を望む)
瀬戸内方面

感想:年未詳ですが、讃岐に元親が侵攻した際、寒川氏が情報を提供しているという文書が残っているので、信長派と元親派に分かれたのでしょうか。上記の寒川氏の紹介は軍記物と系図を元にしているので、実際のところは良く分かりません。
 ここはとにかく山頂近くの道が危険。それなりの装備で行った方がいいです。

参考文献:香川県中世城館跡詳細分布調査報告、寒川町史、日本城郭大系

(縄張図)
縄張図


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熊野神社(二本杉)

●熊野神社
住所:香川県木田郡三木町大字奥山
駐車場:不明

 祭神は伊弉諾命。貞治5(1366)年に創建されたという。創建間もない頃に奉納された樹齢700年以上の二本杉(県指定天然記念物)があることで知られ、二本杉神社と呼ばれることもある。

(鳥居と二本杉。高い方は45メートルもあるそうな)
鳥居と二本杉

(碑もある)
碑

(杉の間を通って社殿へ)
石段

(拝殿と本殿)
拝殿と本殿

感想:津柳合戦跡に行ったついてに寄ってみました。


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冠纓神社(細川氏・由佐氏崇敬の神社)

●冠纓神社
住所:香川県高松市香南町由佐1413
駐車場:有り

 「かんえいじんじゃ」と読む。祭神は応神天皇など。貞観3(861)年、智證大師(円珍。空海の親族)が宝蔵寺を建てたのが始まりと伝わる。平安・鎌倉時代は神社と宝蔵寺が一体であったが、延文2年(正平12年。1357年)に讃岐守護・細川頼之が崇敬していた石清水八幡宮の冠を納めたことから冠尾(かむりお)八幡宮と呼ばれるようになった。貞治2年(正平18年。1363年)、足利義詮の命で頼之は伊予の河野氏と戦う前に戦勝祈願し勝利したことから社殿を修築している。
 戦国時代は由佐城主・由佐氏の崇敬を受け、現在の祭事の大半は由佐氏が定めたものだという。江戸時代は石清尾八幡宮(高松市)の神官・上野刑部の子孫が神主を務めたことから格式の高い神社として扱われ、高松藩主の生駒氏や松平氏から社領の寄進を受けた。明治時代になって現在の社名になる。
 社宝に天治本万葉集巻第十五残巻(国指定重要文化財)などがある。

(遊衣館。豊玉毘売命が瀬戸内海で船遊びをしていた時に寄ったらしい)
遊衣館

(参道)
参道

(鳥居)
鳥居

(境内に建つ地球新生神宮。エネルギーがどうとか新興宗教っぽいことが書いてあった)
地球新生神宮

(随身門)
随身門

(拝殿)
拝殿

(末社の厳島神社。他にも龍王神社などいくつかの末社が建っていた)
厳島神社

感想:境内には無秩序に様々な末社や鐘などが建っており、ゴチャゴチャしている印象を受けました。最近、いろいろと揉め事があったらしのですが、それが関係しているのでしょうか。


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