2014年大坂の陣巡り(1日目その2:大阪城)

 鴫野から大阪城に移動。初めて降りた駅から城に行ったので迷った…。青屋口に着いたところでボランティアさんに声をかけられたので案内していただいた。話を聞くのに一生懸命だったので、どこを撮ったかあまり記憶がありません。書いてる説明も適当です。すいません。

(青屋口)

(大阪城で最大の高さがある石垣。水深までいれると30メートルくらいだったと思う。伊賀上野城とはいつも高さで日本一を争っている)

(高石垣にある人面石。鬼門(北東)除けのために積まれたという説があるのだとか)

(はためく『大坂の陣400年』の文字)

(極楽橋。石山本願寺からの名称をそのまま引き継いだらしい)

(「調査したら大阪城の石垣の数は100万個ありました」だそうな。写真は極楽橋から見た内堀の石垣)

(ボランティアの方「こういうのは枡形と言いまして敵の侵入を容易にさせないための工夫なんですよ」。私「わ~、ここに来たら鉄砲で皆殺しですねえ」)

(自分の希望で山里丸の豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地に寄らせてもらった。合掌)

(「大阪城はこのような雁木だったんですよ。坂道は旧日本軍が使い始めてからです」)

(隠し曲輪。ここから山里曲輪には狭い出入り口しか無かったため、敵の不意を突いて攻撃することが出来た)

(隠し曲輪にある石垣。「伊予大洲藩・加藤家(丸に十字)と丹波園部藩・小出家(丸に二八)の石垣の境がはっきり分かるので皆さんをご案内しています」)

(大阪城模擬天守。展示物は前に見たので入らなかった。「戦前は豊臣の石垣の上に徳川の大阪城が建っていたと信じられていたんですよ」)

(右が黒田長政、左が細川忠興の残念石だったかな? なぜか石まで不仲に見えてくる…)

(大阪城・上田城友好城郭提携記念碑。当然、真田繋がりです。それなら浦戸城とも友好城郭提携記念を…)

(「現存する金蔵です。頑丈な作りですが江戸時代に一度だけ内部のものの犯行で盗み出されたことがあります」)

(桜門枡形の巨石)

(豊国神社の鳥居。「京都は『とよくにじんじゃ』で大阪は『ほうこくじんじゃ』と読みます」)

(境内に建つ豊臣秀吉の像。下のお賽銭箱は最近出来たものらしい)

(石山本願寺推定地)

(乾矢倉)


 ここでボランティアの方とはお別れ。こんなに大阪城を回ったのは初めてだ…。暑い中、ありがとうございました!

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2014年大坂の陣巡り(1日目その1:今福と鴫野)

 2014年5月30日(金)、久々に大坂の陣関係で大阪府に行く。今回の一番の目的は「毛利勝永座談会と見学会」
 11時頃に大阪府に到着すると大阪市城東区に向かう。まずは今福鴫野の戦いに関する史跡を廻る。

(今福の戦いで佐竹義宣が陣を敷いた若宮八幡宮。写真を撮り直しに来たのに修繕中だった(T_T))

(大阪夏の陣 佐竹義宣陣跡。碑文について細かいことは気にしないように)

 今福から鴫野方面に移動する。

(現在の城東区今福南の風景。この辺りで激戦が繰り広げられたことであろう)

(新喜多大橋の辺りから撮影した寝屋川(旧大和川)。左が今福で右が鴫野)


(鴫野古戦場碑。城東小学校の門の横に建っている)

(城東小学校の向かい側に建つ八剱神社西口(裏側)。当時、この辺りは湿地帯だったが当社や隣の大日寺周辺だけは整地されていたため上杉景勝が本陣を構えたという説がある)

(朝日山四郎右衛門の隠退記念で建てられた武者像。最初、鴫野の戦いと関係がある像かと思いました…)


 この時点ですでに暑くてかなわん…。倒れそう。

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志摩和具城(青山氏の居城)

住所:三重県志摩市志摩町和具

 築城年代は不明だが、室町時代は青山(和具)氏の居城だった。永禄年間(1558~1570年)、青山豊前は越賀隼人らと手を結んで九鬼嘉隆に対抗したが降伏し家臣となっている。
 土塁・虎口などが遺構として残っている。

(全景)

感想:時間が無かったので港から撮影して次の史跡に行きました。


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