●仏原山西楽寺
住所:山口県下関市豊北町滝部3099
駐車場:あり
浄土真宗。大内義隆の旧臣・中山弾正は天文20(1551)年の大寧寺の変で主君を失うと出家し浄西と号して各地を放浪した末、当地に流れ着く。そして土地の有力者だった中山善兵衛の娘と結婚し四男一女を授かった。そして次男・助西(俗名・助左衛門)が天正元(1573)年に西楽寺を開く(ただし西楽寺では浄西を開基としている)。
慶長6(1601)年、助西は教えを広めるためには毛利氏館の近くが最適と考え寺を移転した。同年、毛利秀包が亡くなると息子の元鎮は毛利輝元の命で、現在墓所がある場所に秀包を葬った。寛永2(1625)年、元鎮の息子・元包が吉敷郡吉敷村(現在の山口市吉敷)に移封される際、西楽寺に管理を依頼している。寛永19(1642)年、西本願寺から寺号を賜り西楽寺と称した。延享5(1748)年、現在地に移転。明治4(1871)年に本堂を再建している。
(鐘楼。鐘は幕末の下関戦争で供出、戦後は第二次世界大戦の犠牲者を弔うために寄進されている。現在の梵鐘は昭和41(1966)年に鋳造された)
(毛利秀包(小早川秀包)の墓。正徳2(1716)年に秀包の後裔で吉敷毛利家当主だった毛利広包が建立したそうだが、それまでが不明。左右の石燈籠は明治33(1900)年の三百回忌に秀包の後裔で男爵の毛利重輔が寄進したもの)
(吉敷毛利家の重臣・白井兵庫の墓。秀包没後も幼い元鎮を補佐していたが慶長16(1611)年に殉死した。おそらく元鎮が成長して二十歳を過ぎたため、補佐がなくてもやっていけると考えたのだろう)
(瑞光公神道碑。寛政12(1800)年の二百回忌に吉敷毛利家当主・毛利房直が建立した。秀包が毛利元就の十一子(九男)で武勇に優れ、九州攻めや朝鮮出兵で活躍したことなどが碑文にある)
参考文献:豊北町史、豊北町史2、防長風土注進案 第18巻、豊浦郡郷土誌、仏原山西楽寺公式サイト
感想:寺の場所は滝部の中で移動しており、字常安(豊北小学校の北)に創建→字上久森(下関北高等学校の北)→現在地という経緯のようです。庭が綺麗だったそうですが秀包の墓に参拝することで頭が一杯で忘れていました。
毛利輝元が命じた理由がよく分かりませんでした。元鎮が当時は数えで13歳だったので決めてあげたのでしょうか。