関亀山引接寺(小早川隆景の供養塔)

●関亀山引接寺(いんじょうじ)
住所:山口県下関市中之町11-9
駐車場:あり

 浄土宗。本尊は阿弥陀如来像。天文年間(1532~55年)頃、播磨の住民・忠誉が豊前の黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)に創建したと伝わる。永禄3(1560)年、忠誉は亀山八幡宮の麓にあった善福寺の跡地に移転した(善福寺を再建したとも)。慶長3(1598)年、小早川秀秋が養父・隆景の遺言により現在地に移転した。この際、藤堂高虎が小早川隆景の菩提を弔うため本堂の東に宝塔を寄進したが、風雨のため痛み明治年間に撤去されている。移転にはもう一つの説があり、慶長3(1598)年頃に火災で焼失したため、縁者の藤堂高虎が隆景の遺志を尊重し移転の援助をしたという。
 幕末、三十一世で万里小路道房の猶子・来誉が長州藩の命令で奔走した功を認められ、慶応3(1867)年に永代毛利家菩提寺同格と認められた。明治28(1895)年、日清戦争の講和会議の際、清国の全権大使・李鴻章が当寺を宿泊所としている。李鴻章が下関条約を交わした春帆楼と当寺との道は現在、李鴻章道と呼ばれている。昭和20(1945)年6月の下関空襲で伽藍の大半が焼失した。

(山門。天井の彫刻の龍は左甚五郎の作と伝わり、近世後期に寺を抜け出して人々を襲ったが武士により退治されたという伝承があり、胴の部分が真っ二つになっている。後で知ったので写真はない)
山門

(戦後に再建された本堂)
本堂

(紫雲殿)
紫雲殿

(石仏)
石仏

(五重の石塔は秀秋が隆景の遺髪を埋めた供養塔だと伝わる)
隆景の遺髪を埋めた供養塔

参考文献:山口県の地名、開山西蓮社忠誉上人余香録 三百五十年遠忌追恩記念、現地の案内板、下関ふぐ問屋 酒井商店毛利氏関連史跡ガイド~下関編~

感想:高虎と隆景の姻戚関係が不明ですが、個人的には養子の秀秋の移転説の方が自然だと思います。
 毛利家菩提寺同格の毛利家が長府毛利家と毛利宗家のどちらを指すのか私では分かりませんでした。



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