●遠江高天神城
住所:静岡県掛川市上土方嶺向、下土方
駐車場:あり
遺構:曲輪、井戸、虎口、土塁、竪堀、堀切、横堀
標高:130メートル/比高:77メートル
応永23(1416)年に今川了俊によって築かれたというが、この頃了俊は亡くなる数年前で無理があり、明応3(1494)年から永正10(1513)年の間に今川氏親が遠江に進出した際、家臣・福島(くしま)氏が築いたという説が有力である。天文5(1536)年、福島氏が花倉の乱で没落すると、今川氏に従う小笠原氏が入った。
しかし今川氏が桶狭間の戦いで勢いを失い徳川家康が遠江に侵攻してくると、永禄11(1568)年に小笠原氏は家康に寝返る。元亀2(1571)年武田信玄に攻撃された際は本格的ではなかったため落城を免れたが、天正2(1574)年に武田勝頼の攻撃を受け開城した。それから勝頼の家臣・岡部元信が城番となるが長篠の戦いで武田氏が失速すると家康が付城を構えて包囲し天正9(1581)年に落城している。その後、家康は当地の支配のため高天神城包囲の中心的な城だった横須賀城を近世城郭として拡充させ、高天神城は使用されなくなった。昭和50(1980)年、国指定史跡となる。
※下にスクロールすると指定範囲図がありクリックすると別のタブで拡大表示されるため、そちらを参考に下記の写真を見ると理解が深まる。
(石段。山城に慣れていない観光客はゼーゼー言っていた。私も息が荒くなった。左右の曲輪から挟撃されそうな場所である)
(石段の途中にある三ヶ月井戸。同じ静岡県の三ヶ日みかんのことを考えながら写真を撮っていた)
(指定範囲図のT.30にあたる丁字路と、その前にある虎口。ここで本丸と西の丸方面に分かれる)
(的場曲輪の北東にある大河内石窟。武田勝頼が当城を落とした際、大河内政局は従わなかったため、この石牢に閉じ込められた。家康が奪回した際に助け出されている)
(大河内石窟の先にある本丸下の帯曲輪。危険なため通行禁止になっていた)
(御前曲輪。天神社や小笠原夫妻の顔ハメパネルがあった。顔ハメパネルは勝頼か家康の方が良さそうな気もするが、地元では小笠原氏の人気が高いのだろう。ここには模擬天守もあったが昭和20(1945)年に焼失した)
(着到櫓跡。敵が攻めてきた際、徳川軍が鐘を鳴らして戦闘準備を促した場所だという。ここも土塁がはっきりと分かる形で残っている)
(更に降りると南の駐車場。この城は駐車場が多く、イベントでもない限り駐められないことはないだろう。櫓風(?)のオシャレなトイレが2つくらいあった)
(ずっと戻って西の丸(高天神社)に向かう。写真は鐘曲輪、井戸曲輪。一つの長い曲輪に見えるが昔は段差があって明確に区別できていたのだろうか)
(尾白稲荷。帰農した小笠原一族の一人が廃城ののちに高天神城跡で白い尾の狐を射た。それから尾白と名乗ったという。祠は小笠原一族が祀られている)
(昭和34(1959)年の建てられた高天神城合戦将士英魂之碑。誰も手を合わさず素通りしていた。それくらいしても損は無いと思うが)
(馬場平。この背後にある「甚五郎抜道」を利用して横田尹松が勝頼に落城を知らせている。その後、尹松は家康の家臣になっている。尹松の紹介や大坂の陣での活躍は横田重量を参照)
(二の丸。ここで蛇のジムグリ(無毒)を見かけた。ここに来る観光客は皆無だった)
(馬出し馬場。天正2(1574)年戦死者碑と本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清の墓碑、お堂がある)
(堂の尾曲輪の側面にある横堀。斜面が緩やかな西側を補強するため武田勝頼が整備したのが二の丸などの曲輪群らしい。この横堀を登ってくる敵を曲輪群から攻撃する想定だったようだ)
参考文献:史跡高天神城跡保存管理計画策定報告書、静岡県の地名
感想:ここは駐車場も多く本丸や西の丸までは簡単に行けます。しかし全ての遺構を見ようとしたら広いため時間がかかります。
真夏に行ったため蒸し暑くてまいりました。ちょうど大河ドラマ「どうする家康」放映中だったのとお盆の時期だったため観光客が非常に多かったです。