亀之丞の隠れ岩(井伊直親の逃亡の地)

●亀之丞の隠れ岩
住所:静岡県浜松市北区引佐町伊平
駐車場:不明

 永正14(1545)年(天文13(1544)年とも)、井伊家の重臣・小野和泉守政直の陰謀によって井伊直満が今川義元の命で殺される。直満の息子で井伊直虎の婚約者・亀之丞は身の危険を感じた家臣らによって井伊谷から連れ出され、長野県下伊那郡高森町の松源寺に向かう途中、この岩に隠れて一夜を過ごしたという。

(入口。ここから550メートルあるらしい)
入口

(旧道の鳳来寺街道にある元禄9年の道標。遠江地方で2番目に古い道標らしい)
道標

(道が結構荒れていたが所々で案内があるので迷うことはない)
道

(隠岩)
隠岩

隠岩

隠岩

参考文献:現地の案内板、松源寺公式サイトいだいら観音の里

感想:逃亡の際、見つからないように亀之丞は叺(かます。わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる)に入れられたそうです。
 ここは山城のような場所にあり軽装で行くには危険でした。



井伊谷城(井伊城。井伊氏の居城)

●井伊谷城(井伊城)
住所:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(字 城山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、虎口
標高:112メートル/比高:71メートル

 井伊氏の居城。南北朝時代は麓の居館と井伊谷城が平時の住まいで、詰の城の役割は三岳城が担っていた。その時代の史料にある井伊城は三岳城を指している。戦国時代になると麓の居館に対して井伊谷城が詰の城となる。天正18(1590)年、井伊直政が主君・徳川家康の移封に従って関東に行くと廃城になったという。

(駐車場の案内看板。決まった場所に駐めましょう)
案内看板

(全景)
全景

(現在は公園になっており大河ドラマもあったことから登山道が整備され非常に登りやすい。途中に曲輪のような場所があったが山頂以外は後世の削平地で遺構ではないようだ)
削平地

削平地

削平地

削平地

(山頂に到着。写真は下の井伊谷城跡遺構復元平面図の北にある岩の箇所(御所の丸))
御所の丸

御所の丸

(土塁)
土塁

(南にある一段下がった曲輪。家族連れの憩いの場になっていた)
一段下がった曲輪

一段下がった曲輪

一段下がった曲輪

(南西の虎口)
虎口

(山頂から南(浜名湖方面)を望む)
浜名湖方面

参考文献:現地の案内板、浜松情報BOOK、静岡県の地名

感想:お盆に行ったので山城にも関わらず人が多かったです。

(井伊谷城跡遺構復元平面図。クリックすると別のタブが開きます)
井伊谷城跡遺構復元平面図


掲載の縄張図について


井伊家初代共保公出生の井戸(井伊共保の出生地)

●井伊家初代共保公出生の井戸
住所:静岡県浜松市北区細江町気賀

 寛弘7(1010)年、井伊谷八幡の神主が御手洗の井戸の中で赤ん坊を見つけた。赤ん坊は神主に拾われ育てられ、7歳になると国司の藤原備中守共資の養子となり共保(ともやす)と名乗った。やがて井伊谷に戻って井伊姓を名乗る。後裔に徳川四天王の一人・井伊直政や江戸幕府の大老・井伊直弼がいる。

(田圃にぽつんとある井戸。今はコンクリート製(?)の囲いに覆われているが明治時代に発行された『静岡県名勝案内』には木柵に囲まれていたとある)
井戸跡

(中に入ると井伊直弼が井伊家のために詠んだ歌の碑があった。『は(わ)きいずる岩井の水の底きよみ、くもりなき世の影ぞ見えつつ』だそうな)
歌碑

(彦根藩主・井伊直惟が建てた碑。「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」の左右に八幡宮、御手洗の文字が刻んである。近世になると既に八幡宮はなかったのだろうか)
井伊直惟が建てた碑

(井戸)
井戸

(松。先々代くらいの松は井戸の目印で戦後に松食い虫にやられたというパターンだろう)
松

参考文献:静岡県の地名、現地の案内板、ハローナビしずおか 静岡県観光情報、静岡県名勝案内

感想:龍潭寺の参拝の後、歩いて行きました。


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