井伊直親の墓(井伊直政の父の墓)

●井伊直親の墓
住所:静岡県浜松市北区細江町中川
駐車場:なし

 井伊家当主で井伊直虎の許嫁だった肥後守直親の墓。永禄5(1562)年、家老の小野但馬守が今川氏真に讒言したため駿府に弁明のため向かうが、途中で朝比奈備中守泰朝によって殺害された。息子の直政が徳川家康に仕え四天王の一人となる。
 直親は引佐郡中川村祝田(現・浜松市浜名区細江町中川)の大藤寺で火葬され墓が建てられたが、昭和30(1955)年に大藤寺が廃寺となり龍潭寺に合併され墓だけが残った。昭和52(1977)年、都田(みやこだ)川の河川改修で西に200メートルの現在地に移転される。
 碑の前には嘉永4(1851)年に後裔の井伊直弼が寄進した灯籠が建つ。

井伊直親の墓

井伊直親の墓

井伊直親の墓

参考文献:浜松・浜名湖だいすきネット(https://hamamatsu-daisuki.net/naotora/land/)、現地の案内板、細江町史 通史編中、細江町史 資料編3、引佐町物語 遠州郷土誌

感想:河川の下にあり周囲の道が狭く駐車場所を探すのに苦労しました。



仏坂古戦場(ふろんぼ様。山県昌景と井伊三人衆激戦の地)

●仏坂古戦場(ふろんぼ様)
住所:静岡県浜松市北区引佐町伊平
駐車場:あり

 元亀3年(1572年)、武田信玄が徳川家康の領地である遠江に侵攻した。武田家の重臣・山県昌景は別働隊を率いて東三河の柿本城を攻める。守備していたのは井伊三人衆の鈴木重時の息子・鈴木重好だった。同年10月、重好と援軍の鈴木権蔵重俊や井平飛騨守直成らは勝てないことを悟り城を明け渡し徳川家康と合流するため遠江に撤退するが、追撃してきた山県昌景の軍勢に仏坂で追いつかれ戦闘となり重俊や直成が戦死している。

(仏坂)
仏坂

仏坂

(ふろんぼ様。戦いで戦死した重俊や直成など88名の供養塔だと伝わる。「ふろんぼ」は古い墓が訛ったのではないかと言われるが詳細は不明)
ふろんぼ様

ふろんぼ様

(新ふろんぼ様。平成17(2005)年に旧鳳来寺街道を調査した際に発見された墳墓で、ふろんぼ様と同じく戦いで戦死した88名を分散して供養したものだと考えられている)
新ふろんぼ様

参考文献:浜松市文化財保存活用地域計画 本編、ハローナビ静岡、現地の案内板、静岡県の地名

感想:私は駐車場から直接、山道を登りましたが、遠回りでも鋪装された道を行った方が安全です。



亀之丞の隠れ岩(井伊直親の逃亡の地)

●亀之丞の隠れ岩
住所:静岡県浜松市北区引佐町伊平
駐車場:不明

 永正14(1545)年(天文13(1544)年とも)、井伊家の重臣・小野和泉守政直の陰謀によって井伊直満が今川義元の命で殺される。直満の息子で井伊直虎の婚約者・亀之丞は身の危険を感じた家臣らによって井伊谷から連れ出され、長野県下伊那郡高森町の松源寺に向かう途中、この岩に隠れて一夜を過ごしたという。

(入口。ここから550メートルあるらしい)
入口

(旧道の鳳来寺街道にある元禄9年の道標。遠江地方で2番目に古い道標らしい)
道標

(道が結構荒れていたが所々で案内があるので迷うことはない)
道

(隠岩)
隠岩

隠岩

隠岩

参考文献:現地の案内板、松源寺公式サイトいだいら観音の里

感想:逃亡の際、見つからないように亀之丞は叺(かます。わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる)に入れられたそうです。
 ここは山城のような場所にあり軽装で行くには危険でした。