小谷ヶ原(多胡辰敬の墓)

●小谷ヶ原(多胡辰敬の墓)
住所:島根県松江市島根町多古
駐車場:なし

 永禄12(1569)年、第一次尼子再興戦が始まると多胡左ヱ衛門辰敬が千葉県多古町から尼子再興軍の援軍として馳せ参じた。辰敬は当地区に忠山城の出城・かんじゃ山城を築いて守ったが、元亀2(1571)年に再興軍が撤退する際、毛利軍を迎え撃って敗れ戦死する。そして小谷ヶ原(こたんがはら)の斜面に葬られ墓石として石が置かれた。
 昭和の初め頃、墓石が行方不明になってしまったが、社の造営に際して墓があったという場所から骨が出てきた。それを社の境内に葬り自然石を置いて多古霊神として祀っている。

(日蓮と七幸竜神を祀る神仏習合の社。本来は海から参拝する)
社

社

社

(多古士霊神の碑)
多古士霊神の碑

(この自然石が本来の多古霊神だろうか)
多古霊神

感想:通説では辰敬は雲芸攻防戦の最中、石見岩山城で毛利軍の攻撃を受けて戦死しています。
 津和野藩士・多胡氏が江戸時代に神社を勧請していることから、戦国時代の多胡氏と何らかの関係があったのでしょう。尼子氏時代の所領かと思って調べてみましたが不明でした。



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