●美作 岩屋城
住所:岡山県津山市中北上
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、土塁、畦状竪堀群
標高:480メートル/比高:259メートル
岡山県指定史跡。嘉吉元(1441)年、山名教清が美作守護に任ぜられた際に築いたという。応仁の乱で赤松政則が攻め落とし、家臣の小瀬氏などが城の守備についた。永正17(1520)年、浦上村宗が赤松氏に反旗を翻し攻め落とす。天文13(1544)年、美作に侵攻した尼子国久が岩屋城を落とし芦田氏が入った。しかし芦田氏も天正2(1574)年に宇喜多直家によって滅ぼされ家臣の浜口氏が入る。
毛利氏と宇喜多氏の戦争の最中の天正9(1581)年、毛利に味方する葛下城主・中村頼宗らが奇襲によって落城させ頼宗が城主となった。天正10(1582)年に両氏が和睦し当地は宇喜多氏の領地と決まるが、頼宗はこれに従わず宇喜多氏は大規模な包囲網を敷いた(美作岩屋城陣城群)。天正12(1584)年、毛利氏の庇護下にあった足利義昭の調停によって頼宗は開城。その後、宇喜多氏の家臣が城主となるが、天正18(1590)年に山火事で廃城になった。
(慈悲門寺の下砦跡。砦の中でももっとも南東にある。『作陽誌』によると慈悲門寺は圓珍の開基で天台宗だったが戦乱に巻き込まれ岩屋城の廃城の後、廃寺になったとある。本尊は山名教清が寄進したと伝わり現在は同地区の小林寺に移され秘仏となっている。慈悲門寺の砦群は登山道沿いにあり、曲輪などの位置については下の縄張図を参照)
(北にある曲輪。溝や礎石のようなものがあり寺の中心だったと思われる。奥にある巨石群が自然か人工かは不明)
(寺の中心だったと思われる場所から南西に行くとある西の砦跡)
(登山道を少し逸れて山王権現社へ。滋賀県大津市に建つ日吉大社の山王権現を勧請して建てられ、慈悲門寺の鎮守となっていたが明治44(1911)年に津山市坪井下の鶴坂神社に合祀された。ここが岩屋の地名の由来らしい。鳥取県三朝町の投入堂と雰囲気が似ている。この穴は手彫りだそうな)
(ちなみにこれが三朝町の投入堂。岩屋城から北に40キロくらいの位置にあるため、山王権現社は影響を受けていると思われる)
(もとの登山道に戻って登ると大手門跡とその先にある曲輪群に出た。下の中央部の縄張図だと東の中央付近)
(水神宮、龍神池、井戸跡。龍神池は山名教清が山名氏の拠点の一つである伯耆の赤松池を模して作り、同じく赤松池にある龍神を勧請して水神宮を建てたという)
(その更に北を進むと南堀切跡がある。城域の割と北側にあるのになぜ南堀切なのだろうか)
(戻って西に登ると曲輪に囲まれた場所に出る。ここに来た敵は一網打尽だな)
(縄張図Ⅳの曲輪。通称・馬場跡。かなり広い曲輪で多数の兵が駐屯していたと考えられている)
(南から更にY字の箇所を南西に進むと石塁?や堀切が出てきた)
(ここは小分城というらしい。岩屋城と別の扱いなのか、名前の通り城の中に更に小分けして城があるのか不明)
(戻ってY字の南東に進む。なかなかの切岸があって降りるのに一苦労した。堀切や土塁などがあり、ここは石橋上の砦というらしい)
(曲輪Ⅰにある落とし雪隠。天正9(1581)年、毛利に味方する葛下城主・中村頼宗の家臣が奇襲の際に登ってきて火を付けた。それが落城のきっかけになったという。のぞき込むと危険なのでロープが張ってある)
(北東にある畦状竪堀群。通称・てのくぼり。「手で土をのく(西日本でどけるやどかすの意味)」から、手のく堀と呼ばれているのだろうか)
参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編、岡山県の地名、現地の案内板、作陽誌 西作誌中巻 西作誌. 上,中巻 新訂
感想:入口までの道が若干狭いですが普通車でも十分通れます。ここは人気の山城らしく自分以外も何人かの方が来ていました。