備中 猿掛城(庄氏、毛利(穂井田)元清の居城。毛利輝元の本陣)

●備中 猿掛城
住所:岡山県小田郡矢掛町横谷、岡山県倉敷市真備町妹
駐車場:なし
遺構:曲輪、竪堀、堀切、石垣、土塁
標高:241メートル/比高:227メートル

 北側に小田川が流れ、川に沿って山陰道が通る東西の交通の要衝だった。築城年代は不明だが鎌倉時代初期、庄家長が備中を与えられ居城としたという。天文2(1533)年、庄為資が備中松山城に移ると一族を置いた。
 天文21(1552)年、庄氏が尼子氏に属していたため、毛利元就の後ろ盾を受けた三村氏に攻撃されるが和睦している。天正2(1574)年、毛利氏の攻撃を受け開城し元就の四男・元清が入り、翌年の天正3(1575)年には普請を行った。天正10(1582)年の備中高松城攻めでは毛利輝元が本陣としている。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長に押し込められると廃城になったようである。

(全景。左の道が山陽道だったのだろうか)
全景

(小田川)
小田川

(登り口。途中で犬(勝手にモトキヨって呼んでいた)がいて吠えられた。この登山道も獣除けの柵があるので出入りする際は必ず鍵をかけましょう)
登り口

登り口

(入ると直ぐに地蔵がある。GoogleMAPには天保地蔵とあった。天保の大飢饉の供養碑なのだろうか)
天保地蔵

(下の縄張図の北側に位置するⅢ。通称の寺丸の由来は延徳4(1492)年に備中守護・細川勝久の攻撃を受けた際、香西五郎右衛門とその一党が奮戦し戦死したことから菩提と弔うため寺丸に位牌堂を建てたからだという)
寺丸

寺丸

(縄張図のⅡの1と2。通称は大夫丸の由来は天文21(1552)年の庄氏と三村氏の戦い後、和睦の条件として三村元祐が庄為資の養子となり猿掛城の城代だった庄実近が移り曲輪を大夫丸と称したからだという。段差のところに石垣があった)
大夫丸

大夫丸

大夫丸

大夫丸

(曲輪群3。竪堀は分からなかった)
曲輪群3

曲輪群3

曲輪群3

曲輪群3

(曲輪1の南(上)にあるA地点。堀切のように見えたが登山道を通しただけか?)
A地点

A地点

(一部が登山道になっている曲輪4の北側)
曲輪4

曲輪4

(六の丸。縄張図の曲輪の番号と混同しそうなので5を飛ばして曲輪6にした)
六の丸

六の丸

六の丸

(六の丸の東側の窪んだところから曲輪4の東に降りた。出入り口か。登山道は西にある)
東側の窪んだところ

東側の窪んだところ

東側の窪んだところ

(曲輪7(五の丸))
五の丸

五の丸

(曲輪8(四の丸))
四の丸

四の丸

(曲輪9(三の丸)。北の端に石垣があった。曲輪の中央にある謎の石の列は近世になって村の境界線を示すために置いたらしく城とは関係ないらしい。それを知らず最初は儀式用に使うのかと思っていた)
三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

(曲輪10(二の丸))
二の丸

二の丸

二の丸

(曲輪11(本丸)。南に土塁があるが当時は土塁が曲輪を囲んでいたのだろうか)
曲輪11

曲輪11

曲輪11

(曲輪11の背後にある堀切B。写真では伝わりづらいが巨大な堀切でこの城一番の見所である。見学しやすいようにロープも張ってある)
堀切B

堀切B

堀切B

堀切B

堀切B

(曲輪11と堀切Bの間にある竪堀)
竪堀

竪堀

竪堀

(曲輪12(巽の出丸))
巽の出丸

巽の出丸

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、岡山県の歴史

感想:登山道は整備され遺構も整備されており非常に見学しやすい城でした。ただし大堀切を降りる道(?)は急峻なため、自信のない方は止めておいた方が無難です。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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