●播磨 長水城(長水山城)
住所:兵庫県宍粟市山崎町片山・宇野・五十波・上牧谷・大谷
駐車場:林道終点の駐車場を利用
遺構:曲輪、堀切、石垣
標高:580メートル/比高:274メートル
赤松円心の孫・広瀬師頼が築城したというが真偽は不明である(師頼の父・則祐が築いたとも)。嘉吉元(1441)年に起きた嘉吉の乱で播磨が山名氏によって支配されると長水城は赤松氏の手から離れたが、赤松氏が勢力を盛り返すと一族の宇野氏が城主となる。天文9(1540)年、尼子晴久が播磨に侵攻してくると宇野政頼は晴久に従い山名氏と戦った。だが永禄年間(1558~70年)に毛利元就が尼子氏を圧迫すると毛利氏に従うようになる。
天正5(1577)年、羽柴秀吉が播磨攻めを開始すると政頼・祐清父子は当初秀吉に味方したが、毛利氏が優勢と見るとそちらに戻り抵抗。天正8(1580)年、秀吉の軍勢に包囲され補給が途絶え始めると家臣の安積将監が内応し、将監から城内の疲弊の情報を手に入れた秀吉に攻撃され、更に他の内通者が放火したため政頼・祐清は自害し落城している。
宇野氏の菩提を弔うため主郭跡に日蓮宗の長水山信徳寺が建てられたが、現在は無住のようである。
(長い登山道を登り切ると下に載せている概略図の曲輪1と石垣が出てくる。他にも石垣があるが城の遺構か信徳寺のものか、はっきりしないらしい)
(曲輪3には信徳寺の住職さんの家(庫裡)が建っている。ここで暮らすのは大変そう)
(曲輪4。主郭の帯曲輪で石垣がある。ここから主郭への石段があるが崩れかけていたのか補強してある)
(曲輪5。登山で疲れた方のためにベンチがある。お墓は詳しく見ていないが命日が昭和時代だった。ここから東西の景色が一望できた)
(曲輪7から何故か曲輪群8だと勘違いして×印の方に進んだ。岩は多いし急峻だし途中で気付くべきだった。堀切Bは尾根伝いに来る敵を遮断するためだろう。こちら側は攻めづらいのは分かったが、そんなことのために行く必要はないので皆さんは近づかないように)
(曲輪群8。下の概略図ではその名の通り略して尾根として書いているが、実際は小さい曲輪が複数ある曲輪群だった)
参考文献:宍粟郡案内、山崎町史、郷土の城ものがたり 西播篇、兵庫県の地名、西播磨の山城、中世播磨250の山城
感想:道を間違えて体力と気力を失ったため北側の遺構を探す気になれませんでした。どうも曲輪3からの道があったらしく簡単に行けたようです。
林道が狭く最初の写真のように落石も多いため、運転に自信のない方は南や南西にある登山道から行った方がいいです。