但馬館山城(無南垣城、塩冶氏の居城)

●但馬館山城(無南垣城)
住所:兵庫県美方郡香美町香住区無南垣字城山
駐車場:不明
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切
標高:82メートル/比高:77メートル

 芦屋城と同じく北と西は日本海で切り立った崖となっており南は険しい斜面のある要害だった。築城年代は不明だが東にある無南垣港を守るために築かれたと思われる。城主は芦屋城の塩冶周防守と同族の塩冶氏で、城に山名俊豊の主殿を建てる際、芦屋の塩冶氏の支配領域であった居組の者が動員された。塩冶氏は近隣の林甫城主・長氏と境界を巡って争い、但馬守護・山名祐豊と塩冶左衛門尉が謀って長越前守善秀を此隅山城で自害させている。
 城域は4つの区域に分けて考えられており西から城砦1・2・・・と数える。1・2は比較的古く南北朝期~室町期、3・4は戦国期と推測されている。

(城の東端に建つ金比羅神社。ここも曲輪だった)
金比羅神社

(金比羅神社を更に登ると忠魂碑がある横25×縦50メートルの広い曲輪(城砦4の14)に出る。ここに俊豊の主殿や塩冶氏の居城があったと考えられている。最近まではここに金比羅神社があったようだ)
城砦4の14

城砦4の14

(城砦4と3を結ぶ横20×縦30メートルの曲輪(13))
曲輪13

(城砦3の南にある腰曲輪)
腰曲輪

(腰曲輪にある畦状竪堀群。うーん、見ても分からんかった)
畦状竪堀群

(腰曲輪の西にある巨大な竪堀)
竪堀

竪堀

(腰曲輪の上にある横15×縦18メートルの曲輪(11)。土塁もあった)
曲輪(11)

(城砦3の中心にある横24×縦40メートルの曲輪(10))
曲輪(10)

(城砦3の西端にある三日月状の曲輪)
三日月状の曲輪

三日月状の曲輪

三日月状の曲輪

(上記の曲輪の南にある曲輪(12))
曲輪(12)

曲輪(12)

(城砦3と2の間にある堀切)
堀切

堀切

堀切

(城砦2の最初の曲輪、というか尾根?)
尾根

尾根

(尾根の南に曲輪群があったが行っていない)
尾根の南に曲輪群

(城砦2の中央に位置する曲輪(8))
城砦2の中央

城砦2の中央

(中央の曲輪の西にある堀切)
堀切

(城砦2の中央の曲輪と西端の曲輪を結ぶ尾根)
尾根

尾根

(西端の曲輪)
西端の曲輪

西端の曲輪

(上記で城砦2の西端の曲輪と書いたが実際は北東に向かってコの字型の曲輪群がある。この堀切はそのコの字型曲輪群の西側との間にある)
堀切

(コの字型曲輪群の一部。疲れていたので無視して西に直進した)
コの字型曲輪群

(ようやく城砦1の城域に入った。西側の入り海が綺麗に見える。コの字型曲輪群とはここで合流するようだ)
城砦1の城域

城砦1の城域

(城砦1の北側の曲輪群。石積みがあった。直登が嫌で道のある崖沿いを歩いたが危険で体力的には楽だったが精神力を奪われた)
北側の曲輪群

北側の曲輪群

北側の曲輪群

北側の曲輪群

北側の曲輪群

(城の最北西の横25×縦26メートルの曲輪(3)に到着。ここが主郭だろう)
曲輪(3)

曲輪(3)

曲輪(3)

曲輪(3)

(上記の南にある最高地点の曲輪(1)。物見台として利用されていたのだろう)
曲輪(1)

曲輪(1)

曲輪(1)

(更に南には麓まで曲輪群が続く。疲れていたのと未整備のような感じだったので行かなかった)
南の曲輪群

南の曲輪群

(最高地点の曲輪に戻って東の曲輪群(4など)に行き、そのまま元の道を通って下山した)
東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

(無南垣港)
無南垣港

感想:自治体主催のイベントか地元の保存会かは分かりませんが城域のほとんどが伐採してあり見学しやすかったです。ただし城砦4より先は道が整備してある訳ではないので注意が必要です。特に城砦1は足のバランスを崩すと落ちて大怪我か死ぬ可能性がある場所があります。
 約100の曲輪があり見応えがありましたが、疲れていたのと危険な箇所があったので全部は確認していません。

(縄張図)
縄張図



塩冶周防守顕彰碑(但馬芦屋城主)

●塩冶周防守顕彰碑
住所:兵庫県美方郡新温泉町芦屋
駐車場:なし

 昭和4(1929)年、塩冶氏時代の治世を偲んだ地元の人達によって建てられた。

(顕彰碑。奥の山が芦屋城)
顕彰碑

(天文8(1539)年に亡くなった)
顕彰碑

感想:なぜここに顕彰碑があるのか分からなかったのですが、山との間にある田圃が塩冶氏の居館跡だったそうです。
 この周防守は鳥取城攻防戦で毛利方として戦った周防守の祖父だそうです。



但馬芦屋城(塩冶周防守の居城)

●但馬芦屋城(亀が城、阿勢井城、諸寄城)
住所:兵庫県美方郡新温泉町芦屋
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、井戸、など
標高:170メートル/比高:170メートル

 北と西は日本海で切り立った崖となっており南は芦屋坂に連なる険しい斜面がある要害だった。当城のある二方郡は因幡と接している要衝だったのと諸寄(もろよせ)などの港を守るために築かれたと思われる。築城年代は不明だが但馬塩冶氏の居城だった。但馬塩冶氏は南北朝時代に活躍した塩冶高貞の一族の後裔だが、出雲から但馬に来た理由は明確ではない。一説には高貞が自害後、弟の時綱(後塩冶氏の始まり)の息子である通清(出雲市上島町の上郷城主)の時に山名氏との繋がりができ、その四男である周防守が山名氏に仕え但馬に来たという。後裔は代々周防守を名乗っている(例外あり)。麓の芦屋には塩冶主計亮、塩冶兵衛左衛門尉、ハシ(漢字は不明)氏などの家臣の家があり、主従が但馬水軍を形成していた。但馬水軍は永禄12(1569)年に尼子再興軍を隠岐(島根半島とも)に送り届けているが、その時毛利方の湯原元綱が諸寄に在番しており、当時の芦屋・諸寄の状況が判然としない。
 『因幡民談記』や『大庭軍記』には元亀2(1571)年、塩冶周防守が山名豊国と手を結んだため豊国と敵対する鳥取城主・武田高信に当城を攻撃されたが大石や大木を落とすなど激しく抵抗し、武田勢が撤退すると追撃して南東にある大庭田圃(新温泉町戸田)で大勝したとある(庭中合戦)。天正8(1580)年、羽柴秀吉が但馬攻めを行った際に落城したため城主の周防守は鳥取城主になっていた豊国を頼った。だが豊国は秀吉に降伏してしまったため、新たに鳥取城を支配した毛利氏に従い天正9(1581)年の第二次鳥取城攻めで因幡の雁金山と丸山城を守備するが落城し周防守は切腹している。

(諸寄港と芦屋城)
諸寄港と芦屋城

諸寄港と芦屋城

(駐車場から見た諸寄港。近世は北前船の寄港地として賑わった)
諸寄港

(主郭に向かう途中にある東の曲輪群。曲輪の北にある電波塔に行くためなのか道が整備されていた。南に堀切と曲輪群があったようだが危険だったので止めた)
東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

(主郭の一段下にある曲輪。NHKの施設が建っている)
一段下にある曲輪

(主郭の虎口? 本来の主郭の入口は場所的に上記の曲輪の真上にあったように思えるが)
主郭の虎口

(主郭の井戸。主郭は「イツノナル」と呼ばれているが、この井戸が五角形にくり抜かれているためだと考えられている)
主郭の井戸

(主郭の西にある一段高くなった箇所。物見台として利用されたのだろう)
物見台

物見台

物見台

(物見台と思われる場所の近くから見た諸寄港。水上バイクが走っていた)
諸寄港

(主郭。西側は民放局の電波塔が建っていた。この電波塔が建設される昭和59(1984)年に発掘調査が行われ、掘立柱建物跡二棟や硯・刀子・白磁片・青磁片・天目片などが出土している)
主郭

主郭

主郭

(浜坂港)
浜坂港

(東の曲輪群に降りるためのロープだと思われる。ここも危険なので止めた)
東の曲輪群

東の曲輪群

参考文献:浜坂町史、浜坂町誌、日本城郭大系、兵庫県の中世城館・荘園遺跡、塩冶氏と中世出雲(レジュメ)、兵庫県の地名

感想:山頂近くまで車で上がれて駐車場も広いため、危険な場所にある遺構を避ければ気軽に散策できる城です。