但馬芦屋城(塩冶周防守の居城)

●但馬芦屋城(亀が城、阿勢井城、諸寄城)
住所:兵庫県美方郡新温泉町芦屋
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、井戸、など
標高:170メートル/比高:170メートル

 北と西は日本海で切り立った崖となっており南は芦屋坂に連なる険しい斜面がある要害だった。当城のある二方郡は因幡と接している要衝だったのと諸寄(もろよせ)などの港を守るために築かれたと思われる。築城年代は不明だが但馬塩冶氏の居城だった。但馬塩冶氏は南北朝時代に活躍した塩冶高貞の一族の後裔だが、出雲から但馬に来た理由は明確ではない。一説には高貞が自害後、弟の時綱(後塩冶氏の始まり)の息子である通清(出雲市上島町の上郷城主)の時に山名氏との繋がりができ、その四男である周防守が山名氏に仕え但馬に来たという。後裔は代々周防守を名乗っている(例外あり)。麓の芦屋には塩冶主計亮、塩冶兵衛左衛門尉、ハシ(漢字は不明)氏などの家臣の家があり、主従が但馬水軍を形成していた。但馬水軍は永禄12(1569)年に尼子再興軍を隠岐(島根半島とも)に送り届けているが、その時毛利方の湯原元綱が諸寄に在番しており、当時の芦屋・諸寄の状況が判然としない。
 『因幡民談記』や『大庭軍記』には元亀2(1571)年、塩冶周防守が山名豊国と手を結んだため豊国と敵対する鳥取城主・武田高信に当城を攻撃されたが大石や大木を落とすなど激しく抵抗し、武田勢が撤退すると追撃して南東にある大庭田圃(新温泉町戸田)で大勝したとある(庭中合戦)。天正8(1580)年、羽柴秀吉が但馬攻めを行った際に落城したため城主の周防守は鳥取城主になっていた豊国を頼った。だが豊国は秀吉に降伏してしまったため、新たに鳥取城を支配した毛利氏に従い天正9(1581)年の第二次鳥取城攻めで因幡の雁金山と丸山城を守備するが落城し周防守は切腹している。

(諸寄港と芦屋城)
諸寄港と芦屋城

諸寄港と芦屋城

(駐車場から見た諸寄港。近世は北前船の寄港地として賑わった)
諸寄港

(主郭に向かう途中にある東の曲輪群。曲輪の北にある電波塔に行くためなのか道が整備されていた。南に堀切と曲輪群があったようだが危険だったので止めた)
東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

(主郭の一段下にある曲輪。NHKの施設が建っている)
一段下にある曲輪

(主郭の虎口? 本来の主郭の入口は場所的に上記の曲輪の真上にあったように思えるが)
主郭の虎口

(主郭の井戸。主郭は「イツノナル」と呼ばれているが、この井戸が五角形にくり抜かれているためだと考えられている)
主郭の井戸

(主郭の西にある一段高くなった箇所。物見台として利用されたのだろう)
物見台

物見台

物見台

(物見台と思われる場所の近くから見た諸寄港。水上バイクが走っていた)
諸寄港

(主郭。西側は民放局の電波塔が建っていた。この電波塔が建設される昭和59(1984)年に発掘調査が行われ、掘立柱建物跡二棟や硯・刀子・白磁片・青磁片・天目片などが出土している)
主郭

主郭

主郭

(浜坂港)
浜坂港

(東の曲輪群に降りるためのロープだと思われる。ここも危険なので止めた)
東の曲輪群

東の曲輪群

参考文献:浜坂町史、浜坂町誌、日本城郭大系、兵庫県の中世城館・荘園遺跡、塩冶氏と中世出雲(レジュメ)、兵庫県の地名

感想:山頂近くまで車で上がれて駐車場も広いため、危険な場所にある遺構を避ければ気軽に散策できる城です。



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