沼田城(真田氏の城)

住所:群馬県沼田市西倉内町

 1532年頃、沼田氏が築城。1560年、上杉謙信が上野に侵攻した際に攻略され謙信の関東攻略の拠点となる。1578年に御館の乱が起き上杉氏の勢いが衰えると同氏の支配を離れ、北条氏と武田氏(武田氏滅亡の後は家臣の真田氏)の争乱の舞台となった。
 1590年の小田原征伐後は真田信之が城主となり、本格的な城下町が整備される。慶長年間(1596~1615年)に五層の天守が完成した。しかし1681年に真田氏が失政を咎められ改易されると天守は破却され堀も埋められる。一時、天領になるが、1703年以降、本多氏、黒田氏、土岐氏が城主となる。
 明治時代になると荒廃したが地元の名士・久米民之助が私財を投じて公園として整備した。

(城趾碑…なのかなあ)

(1983年に復元された鐘楼。鐘は真田信吉が鋳造したもの)

(発掘調査で見つかった西櫓台跡。真田氏時代のものと考えられている)

(天守があった場所にある沼田城御殿桜。夏に行ったため桜は咲いてません)

感想:知名度の割には見所が少ない城なんですよね…。


写真の提供についてはこちらをクリック


名胡桃城(名胡桃事件の舞台)

住所:群馬県利根郡みなかみ町下津

 明応年間(1492年~1501年)頃、沼田景久の子・(名胡桃)景冬が築城したと伝わる。当地は越後や信濃への道が近い要衝であった。天文年間(1532~1555年)、北条氏によって城が奪われ傘下となる。1560年、上杉謙信が上野に侵攻した際に攻略されたが、1578年に御館の乱が起き上杉氏の勢いが衰えると同氏の支配を離れ、北条氏と武田氏(武田氏滅亡の後は家臣の真田氏)の争乱の舞台となった。
 1589年、天下人・豊臣秀吉が沼田領の内、名胡桃城は真田氏、沼田城は北条氏と決めた。しかし沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取したため秀吉の逆鱗に触れ小田原征伐のきっかけとなったのは有名である。1590年、小田原征伐で北条氏が滅亡すると廃城となった。
 城は利根川・赤谷川の合流地点の段丘上に築城されている。

(駐車場の近くに建つ名胡桃城案内所。16時過ぎに行ったら閉まっていた…。残念)

(丸馬出し)

(丸馬出しと三の丸の間にある三の丸堀)

(三の丸虎口。う~ん、どこら辺が虎口なのか不明)

(三の丸と二の丸の間にある二の丸堀)

(二の丸にある食い違い虎口。こちらも良く分からない)

(二の丸と本丸の間にある本丸堀)

(二の丸と本丸を繋ぐ土橋)

(本丸に建つ城趾碑)

(同じく本丸に建つ城趾碑その2。徳富蘇峰の筆)

感想:利根川沿いの高台にあるため、沼田城から敵が来た際はすぐに分かったのではないのでしょうか。


写真の提供についてはこちらをクリック


正覚寺(小松姫の墓)

住所:群馬県沼田市鍛冶町938

 浄土宗。真田信之の正室・小松姫の墓と霊屋がある。寺宝の絹本著色地蔵十王図は小松姫が寄進したものだと伝わる。

(市指定重要文化財の本山門。1860年の建造と伝わる。入母屋造平入の銅瓦葺、正面に千鳥破風を付け、下に向唐破風としている)

(コウヤマキ)

(本堂。小松姫の実家・本多家の立葵の家紋があった)

(小松姫の墓。1620年、埼玉県鴻巣市で亡くなり火葬された際、当寺にも分骨された)

(小松姫の霊屋)


写真の提供についてはこちらをクリック