真田信之

(さなだのぶゆき)

生没年:1566〜1658年/ 身分:信濃上田9万5千石の大名/ 官位(通称、号):伊豆守

沼田城
信之が城主だった沼田城

【表裏比興の者の子】真田昌幸の長男。母は宇田頼次の娘(菊亭大納言の娘という説もある)。幼名・源三郎。真田幸村は一歳違いの弟にあたる。父・昌幸は武田家の家臣だったが、1582年に武田家が滅亡したため独立し、徳川秀忠上杉景勝・北条氏政という大国に囲まれながらも必死に領土を守った。信之も父を助けて真田家を守り立てる。

【第一次上田城攻防戦】1585年8月、真田家と徳川家の関係がこじれて大軍が攻めて来た際、戸石城に篭り、側面から徳川軍を攻撃し味方を勝利に導いている。1586年に家康が豊臣秀吉と和解したため、真田家など信濃の大名は徳川家の配下となった。
 そこで1589年2月に信之は徳川家へ出仕し、家康の養女(本多忠勝の娘・小松姫)を娶った。1590年の小田原征伐に父と共に出陣し、戦後、上野沼田城を与えられ一城の主となった。

上田城
信之が城主だった上田城

【親子で争う】1600年の会津征伐に親子で従軍し、下野犬伏に陣を敷いていた際、石田三成の密使が訪れ、家康を討つ計画を告げた。昌幸と幸村は三成との関係が深かったため西軍につくことを決め居城に戻ったが、徳川家と繋がりのあった信之は一人東軍に残る。
 信之は徳川秀忠軍に編入され中山道を西に向かった。その途中、昌幸らの籠もる上田城を攻めることになったが、結局城は落ちずそのまま更に西へと向かう。関ヶ原の戦い後、信之は家康から昌幸・幸村の首を獲ってくれば百万石を与えると言われ朱印を与えられたが、その朱印と引き換えに二人の助命を願い出た。最初、家康はこれを承知しなかったが、信之の覚悟と義父・忠勝や井伊直政が願い出たのがあって、やっと家康が許可を出したという。

松代城
信之が城主だった長野市松代町松代にある松代城

【真田家の当主】昌幸が高野山に送られたため信之が家督を継ぎ、戦功として上田城9万5千石を与えられた。この時、名前を信幸から信之に改めている。
 1614年に大坂の陣が起こると、真田家に出陣の命令があったが、信之は病気療養中で出陣できず、息子の信吉信政を従軍させた。この際、信之は若い二人が心配だったらしく、11月4日に重臣の矢沢頼幸宛に『信吉はまだ若いからいろいろ知らないことが多いだろう。だから気をつけておいてくれ』と手紙を送っている。残った信之は後方から真田軍を支援するため、金策などを行っている。
 夏の陣でも病気が治らず同じく信吉を大将として出陣させた。この時の真田軍は非常に苦戦し、29の首を得る代わりに35人前後の戦死者を出している(天王寺・岡山での最終決戦)。大坂城に入った幸村が同じ戦いで奇跡的な奮戦をしたのとは対照的ではある。

【松代藩祖】1622年10月、信之は突然、信濃松代10万石へ移封された。それで落ち着くかと思った信之だったが、その後も家督相続などが持ち上がり心休まる暇が無かった。
 1658年8月末、家督相続をめぐる問題が解決して安心したのか体調を崩してしまう。薬を進められたが、十分生きたと言ってそれを受け取らず、10月17日死亡した。遺体は長野市松代町松代1015−1の長国寺に葬られた。

真田信之の霊屋
長野市松代町松代1015−1の長国寺にある真田信之の霊屋

管理人・・・幸村もコンプレックスを感じていたということを小説に書かれるほどの名将ですが、私はどうしても陰険な秀忠に真田家にやられたことを根に持って苛められてるってイメージが強いです。水曜大型時代劇の『真田太平記』の影響でしょうか。幸村と逆の立場でしたら信之が大坂城で大活躍していたことでしょう。
 幸村と比べると印象が薄いですが、彼が現実路線を取ったので真田家は明治維新まで残っています。父と弟が九度山に蟄居させられていた際にずっと仕送りをしていますが、昌幸が生活レベルを落とさないため、送金額が多く困っていたことでしょう。

参考文献:真田一族・三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜、ほか

UPDATE 2002年8月31日
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