真田信政

(さなだのぶまさ)

生没年:1597〜1658年/ 身分:信濃上田9万5千石の大名の子/ 官位(通称、号):内記

真田信政の墓
長野市松代町松代1015−1の長国寺にある信政の墓

 真田信之の次男として沼田に生まれる。母は本多忠勝の娘である小松殿。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家に人質として送られた。大坂の陣が起こると父の名代として兄の信吉と共に出陣し奮戦する。
 1638年に沼田3万石を継いでいた信吉の息子・熊之助が亡くなったため、その内の5千石を信吉の庶子・信利に分け与えて残りの2万5千石を領した。そのため、それまで領していた1万7千石は弟の信重に与える。1657年8月に信之が隠居したため沼田を去って信濃松代10万石を継いだ。しかし僅か半年で中風のため1658年2月5日に死亡する。法名・円陽院殿威良一中大居士。長野市松代町松代1015−1の長国寺に葬られた。

管理人・・・信政の死後、彼の息子の幸道と沼田城主の信利の間でどちらが家督を継ぐかもめましたが結局は幸道が継いでいます。また彼は沼田城主時代に新田開発と用水工事に開発狂と呼ばれるほど力を注いで石高を3万石から4万2千石にまでしています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜、ほか

UPDATE 2004年6月12日
Copyright (C) 2004 Tikugonokami.