真田信尹

(さなだのぶただ)

生没年:1547〜1632年/ 身分:徳川宗家の家臣/ 官位(通称、号):隠岐守

江戸城
信尹が兵を追い出した江戸城

 真田幸隆の四男。真田昌幸の弟。武田信玄の家臣で、加津野氏の名跡を継いで加津野市右衛門信昌と名乗った。1582年に武田氏が滅亡すると北条氏の家臣となり、本姓に戻し真田隠岐守信尹と改める。1584年に駿府で徳川家康と謁見し2千石を与えられた。
 1590年の小田原征伐では江戸城から兵を追い出して家康に手渡す。その功で1万石を与えられたが、その恩賞に不満を抱き徳川家を去って京に行き豊臣秀吉に家臣になりたいと願い出た。しかし秀吉は許可しなかった。その後、蒲生氏郷に召抱えられ5千石(6千石とも)を与えられ、九戸政実の乱に出陣する。
 氏郷の死後、徳川家に戻り甲斐国内で3千石を与えられた。後に1千石を与えられ4千石となる。大坂冬の陣に従軍し、甥の真田幸村に徳川軍に味方するように促すが拒否された。夏の陣にも従軍し、幸村の首実検に立ち会う。1632年5月死亡。

管理人・・・小田原征伐の時なんですが、徳川家の家臣だったのか、北条家の家臣で徳川軍に通じて城を手渡したのかがよく分からないです。徳川家の家臣で江戸城に篭る守備兵を上手く騙して出て行かせた、ってことだと思うのですが。
 あと生まれが信濃人物志では1572年生まれになっているですが、遅すぎるような気が、、、。おそらく間違いだと思います。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・会津人物事典(武人編)・信濃人物志・大日本史料(第十二編15〜20)、ほか

UPDATE 2005年5月11日
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