石見 佐賀里松城(尼子経久と小笠原長雄に攻められた城)

●石見 佐賀里松城
住所:島根県江津市都治町下都治
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切
標高:52メートル/比高:30メートル

 西にあった居館と思われる今井城の築城が文治5(1189)年に平田氏によって築かれたと伝わるため佐賀里松城も同じ頃であろう。城の北から西にかけて都治川が流れ江の川と合流している。都治町には古代山陰道の駅家・樟地駅(くすちのうまや)があったとされており古代からの水陸の要衝だった。
 観応元(1350,正平5)年、城主の平田四郎が高師泰に攻められ落城し、その後に佐々木氏が入って都治氏を称している。大永元(1521)年、石見での影響力を広げたい尼子経久は家臣の亀井秀綱を佐賀里松城に向かわせ落城させて都治興行を自害に追い込んだ。その後、興行の息子・隆行が城主に返り咲くが、天文20(1551)年に大寧寺の変で石見から大内氏の影響力が弱くなると在地領主の小笠原氏と福屋氏が争い始め、福屋氏に属していた隆行が籠もる佐賀里松城を小笠原長雄が攻撃している。だが、これは失敗したようだ。
 天文24(1555)年、毛利元就が陶晴賢を倒し石見に進出してくると隆行は毛利氏に味方し、かつては従っていた福屋氏と戦っている。天正19(1591)年、隆行の息子・経行の代に出雲の猪尾(雲南市加茂町猪尾)に移封され廃城となった。

(全景)
全景

(南側の曲輪らしき場所)
南側の曲輪

南側の曲輪

南側の曲輪

南側の曲輪

(竹林のため分かりづらいが二重の堀切)
二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

参考文献:島根県の合戦、島根県の地名、島根県中近世城館跡分布調査報告書 石見の城館跡、日本城郭大系14、江津市誌 上巻

感想:この頃は城にあまり興味がなく縄張図と遺構を照らし合わせていないため、どこを撮影したのか覚えていないです。
 上記の二重の堀切を超えれば北側の広い曲輪に出られたのですが、当時は飽きて帰ってしまったようです。

(縄張図)
縄張図