徳願寺(徳川家康・宮本武蔵所縁の寺)

住所:千葉県市川市本行徳5ー22

 浄土宗。もとは普光院という草庵(藁・茅などで屋根を葺いた粗末な家。草ぶきの小さな家)で勝願寺の末寺だったが、1610年に徳川家康が帰依し伽藍が建立された。その際、徳川の『徳』と勝願寺の『願』から取って寺号を徳願寺としている。1871年、印旛県庁が置かれ、1873年には行徳小学校の仮校舎となった。
 本尊の阿弥陀如来像は北条政子が運慶に命じて彫刻させたもので、家康が徳川秀忠の夫人・崇源院のために鎌倉から江戸に移したが、崇源院の没後、当寺に安置された。

(1775年に建てられた山門)

(同じく1775年に建てられた鐘楼)

(本堂。1856年に焼失したが1916年に再建された)

(觀心堂)

宮本武蔵の供養塔。武蔵が下総に滞在していた頃、当寺に賊が侵入した際に撃退したという伝承が残っている)

(1807年、江戸深川の永代橋の橋桁が落下し多数の溺死者が出た。写真はその人達のために建てられた供養塔)

感想:近くの寺に来ていた普光院の小坊主が家康に気に入られて伽藍が建立された、というようなことを地元の方が話されていました。記憶違いだったらすいません。


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里見公園(国府台合戦古戦場)

住所:千葉県市川市国府台3丁目67-5

 1478年に太田道灌が築城。1538年、足利義明は里見義堯らを従え国府台に陣を敷き北条氏綱軍と戦ったが、敗北し義明は戦死、義堯らは敗走した(第一次国府台合戦)。
 1564年、義堯の子・義弘は越後の上杉謙信の南下に合わせて国府台に兵を進めた。緒戦は里見軍の勝利したが、その後北条氏康軍の逆襲に遭い敗走している(第二次国府台合戦)。
 江戸時代になると国府台城は江戸を俯瞰できることから防衛上よろしくないということで廃城となった。1959年、里見公園となる。

(羅漢の井。空海が発見した井戸で里見軍が飲料水として使ったという)

(国府台城跡の碑)

(里見茶屋。休日だけど閉まっていた。もう営業していないのかな…)

(夜泣き石。第二次国府台合戦で戦死した里見広次の娘が父の霊を弔うため安房の国から来たが、戦場の凄惨な光景を見て恐怖と悲しみで石にもたれて泣き続け亡くなってしまった。それから毎夜、石から悲しい泣き声が聞こえるようになったため、通りかかった一人の武士が供養したところ泣き声が止まったという)

(1829年に建てられた里見諸士群亡塚(左)、里見諸将群霊墓(中央)。里見広次公廟(右)は建てられた年代が不明)

(里見公園から江戸川を望む)

(城の遺構だと思う)

感想:駐車場がどこか分からなく国府台天満宮に駐めて歩いて行きました。市川市の公式サイトには無料駐車場が40台あったそうですが…。


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国府台天満宮

住所:千葉県市川市国府台3丁目11-9

 1479年、太田道灌が建立した。もとは方皇塚に祀られていたが、1875年に大学設立の用地として買収された際、当地に移転される。
 悪霊や悪疫が地区に入るの防ぐため、地区出入り口の四隅の辻を霊力で遮断する「辻切り」という行事が毎年1月17日に催されている。

(鳥居)

(拝殿…だったと思う)

感想:蚊が多かった記憶しかないです。


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