宮本玄信

(みやもとげんしん)

生没年:1582(1584)〜1645年/ 身分:豊臣軍の兵士/ 官位(通称、号):武蔵守

武蔵の像
岡山県大原町にある武蔵の像

【武芸に秀でた子】名前は政名とも。父は美作の豪族・新免氏に仕えた平田(新免)武仁少輔正家。幼少の頃から武芸に関して非凡な才能を発揮し、13歳の時に武者修行していた有馬喜兵衛が播磨を訪れ他流試合を希望したのを受け六尺の棒で立ち向かい勝利した。16歳の時には但馬出身の秋山某と戦い勝利している。
 1600年の関ヶ原の戦いが起こると、名をあげる好機と宇喜多秀家軍に属して参戦したが、功をあげることが出来ず、主筋にあたる新免氏と一緒に九州に落ち延び黒田家に匿われた。九州に移った武蔵は英彦山に篭り4年間に渡り修行を積み、1604年に武者修行のため九州を出て京都を目指す。

【名を高める】そして上洛した武蔵は足利将軍家の剣の師範である吉岡一門に勝負を挑んだ。そして武蔵は当主・吉岡清十郎と戦い見事一撃で倒した。清十郎は一命を取り留めたが、負けたことを恥じ剃髪し剣を捨ててしまう。続いて弟・伝七郎が武蔵に勝負を挑んだが、持っていた木刀を奪い取られ、それで一撃され死んでしまう。そのため吉岡一門が武蔵の抹殺を企てるが逆に敵を待ち伏せし弟子達を何人か倒して逃げ去った。
 その後、奈良に向かい宝蔵院流槍術の達人・奥蔵院と戦い完勝。次に伊賀で鎖鎌の使い手・宍戸某と戦いこれも苦戦の末、勝利。そして江戸に行き、柳生新陰流の弟子達や、槍の使い手・夢想権之助と戦い、これを軽くあしらうなど、兵法家としての名を高めていった。

佐々木小次郎の像
一乗滝に建つ佐々木小次郎の像

【巌流島の決闘】1612年4月、細川忠興の家臣・長岡興長を頼って小倉に移った。そこで細川家に武芸の指南役としていた佐々木小次郎との勝負を希望した。これを忠興は認め、4月13日、下関と小倉の間に浮かぶ舟島(巌流島)で勝負し勝利した。

【各地を転々とする】1614年に大坂の陣が起こると武蔵は出世を夢見て大坂城に入る。そこで一兵士として戦うが、剣よりも火器がものをいう戦いであったため、特筆すべき活躍はなく、落城後逃亡し、残党狩りから逃れながら各地を放浪することになった。
 その後、時期は分からないが、江戸に行き、軍学者・北条氏長のもとで勉強をしたり、尾張へ行き徳川義直に仕えようとしてうまくいかなったり、播磨明石の小笠原忠真に客分として滞在し養子・伊織を小姓にしてもらったりしている。1634年、更に仕官先を求めて旅をしていた武蔵は行き詰まって小倉に移動した。小姓から家老にまで出世した伊織を頼ったのである(この頃、小笠原家は明石から小倉に移封されていた)。そこで再び客分として滞在する。

【島原の乱】1637年10月、島原の乱が起こり、武蔵も小笠原軍に軍監として従軍し、ここでも功を立てようとしたが、子供の投げた石によって怪我をするという散々な目にあっただけで活躍できなかった(逆に伊織は功を立て更に昇進している)。
 1640年、武芸好きの熊本城主・細川忠利に招かれそちらに移る。そこで今まで自分を得たものを文章にし、『兵法三十五箇条』・『五輪書』などを残している。1645年5月19日死亡。

岡山県大原町にある武蔵の墓
岡山県大原町にある武蔵の墓

管理人・・・この人、略歴を書くのが大変でした。何しろ生まれた場所から熊本に移る理由までどれもが諸説紛々、どれが正しいのやらさっぱり分からないのです。だから上のはあくまで一説です。彼は剣の腕は立ったようですが変人だったようです。風呂には入らず、他人に少しでも名誉が傷つくようなことをいわれたら異常なまでに怒りだし、プライドが異常に高かったそうで、徳川義直に仕官を断られたのもその性格が災いしています。

 誰が相手でも手加減しない人で、出雲の大名・松平直政に招かれて松江に滞在していた際にこんな話があります。
 ある日、直政の命令で御前試合をしました。これで武蔵の圧倒的な強さを見た直政は戦ってみたいと言い、自ら木刀で勝負を挑みました。この時、武蔵は勝負を受けるばかりか直政を徹底的に追い詰め勝利したそうです。普通はそこまでしないですよね。普通、接待ゴルフみたいに手を抜くでしょう。負けるのが絶対嫌だったんでしょう。

 そのように個人戦は強かったのですが、戦となるとパッとしませんね。関ヶ原・大坂の陣・島原の乱ともに活躍出来てませんし。肝心の大坂の陣ですが、武蔵は豊臣軍ではなく、徳川軍に加わっていたという説もあります。『大坂御陣人数附覚』によると水野勝成軍に従軍し、戦功があったということですが、これは武蔵と同姓同名の人物だった可能性があってはっきりしません。以上、剣豪としてあまりにも有名な宮本武蔵でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版・図解雑学 宮本武蔵、ほか

UPDATE 2002年9月21日
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