徳川義直

(とくがわよしなお)

生没年:1600〜1650年/ 身分:尾張名古屋54万石の大名/ 官位(通称、号):右近衛中将

名古屋城
名古屋市中区本丸にある尾張徳川家の居城・名古屋城

【尾張徳川家】徳川家康の九男。母は志水宗清の娘・於亀。名前は義知・義利とも。1600年11月28日、大坂城西の丸に生まれる。1603年にわずか4歳で甲斐25万石を与えられる。1607年に兄の松平忠吉が無嗣改易されたため、尾張清洲54万石に移封された。ただし駿府で家康の養育を受けて、尾張の政治は家老が執っている。1610年には城を清洲から名古屋に移し現在の名古屋市の基礎を築いた。1611年に右近衛中将に任ぜられる。

【名古屋の殿様】大坂冬の陣に従軍した。1615年4月、浅野幸長の娘と結婚する。この婚礼のため家康が駿府から名古屋に向かったのが大坂に向かう口実となった。この結婚後に木曽福島と美濃国内で加増され62万石となる。大坂夏の陣にも従軍した。1626年に大納言となる。1650年5月7日死亡。愛知県瀬戸市定光寺町の定光寺に葬られた。

徳川義直の墓
愛知県瀬戸市定光寺町の定光寺にある徳川義直の墓

管理人・・・義直は非常な学問好きで藤原惺窩の高弟・堀杏庵を招き、類聚日本史、神祗宝典などのたくさんの著書を残しています。政治面では本文で述べた通り、名古屋城を築城し街を造り、法令の制定、瀬戸陶業などの産業の育成、農業用水の整備など、こちらでも功績を残しています。また武道にも長けた文武両道の名将だったようです。
 ただ甥であり将軍である徳川家光との関係には苦慮しており、1633年に家光が病気の際に名古屋から江戸に向かっている最中に病状が回復したのを聞いて、江戸の屋敷に入ると、それが家光の機嫌を損ねてしまってます。また逆に1634年に家光が上洛する途中で名古屋に寄ることになったので、御殿を建築しますが、突然名古屋を素通りされ、その態度に怒った義直は名古屋城で篭城しようと考えた、など不和だったことが伺える話がいくつか残っています。
  以上、御三家の筆頭、尾張徳川家の藩祖・徳川義直さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2005年6月9日
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