小笠原忠真

(おがさわらただざね)

生没年:1596〜1667年/ 身分:信濃松本8万石の大名の子/ 官位(通称、号):大学頭

松本城
忠真が城主だった松本城

【家康の孫】小笠原秀政の次男。母は徳川家康の孫(信康の娘)。幼名・春松丸。元服すると徳川秀忠の一字を賜り忠政と名乗った。

【九死に一生を得る】大坂夏の陣では留守を命じられていたが、兄・忠脩と共に密かに大坂に向かい、家康に誉められている。天王寺・岡山での最終決戦で小笠原軍は名誉挽回のために奮戦し、父・兄共に豊臣軍によって戦死し、忠真も7ヶ所に傷を負う重傷となったが一命は取り留めた。

【明石の基礎を築く】1615年7月、家康から伏見城に呼ばれ『鬼孫』と賞賛され、兄の息子・長次が幼少だったので信濃松本8万石を相続する。1616年6月に越後の松平忠輝が改易されたので、松代に城受け取りに向かった。
 1617年7月、2万石の加増で播磨明石に移封が決まる。この時は急の移封で、身分の軽い者はついて行けず松本に残ったものが多かった。忠真は、明石に家が少なかったので多くの者を三木城に入らせ、本多家の客将・宮本武蔵(剣豪の武蔵とは関係ない)に命じて2年がかりで明石の造営に当たらせた。

明石城
忠真が築城した兵庫県明石市にある明石城

【小倉へ】その後、二条城・江戸城の普請など幕府のために尽くし、その功で1632年10月11日に豊前小倉15万石に移封され、甥・長次、弟・忠知も豊前・豊後に移封となる。これは小笠原家が九州探題の任も兼ねていたと言われている。
 1637年に島原の乱が起こると800の兵を率いて出陣した。1663年12月、右近将監に任じられた。1667年10月18日死亡し、福聚寺に葬られる。

管理人・・・かなりの重傷だったみたいですが、大坂の夏陣の際に忠真だけでも生き残ったのは小笠原家にとっては幸いでした。
 九州の見張りを命じられるとは、幕府から信頼が厚かったのでしょう。また忠真は肥後の細川家の当主が幼いので後見を命じられています。
 政治家として優秀で、明石の基礎を築いたのは忠真だったようです。以上、名門小笠原家の当主・忠真でした。

参考文献:松本市史・三百藩藩主人名事典日本の戦史 大坂の役

UPDATE 2002年8月20日
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