西超勝寺(藤島城)

住所:福井市藤島町37-1

 浄土真宗本願寺派。1392年、藤島城主・斯波豊郷が頓円鸞芸を迎えて超勝寺を創建。戦国時代になると一向一揆の拠点として朝倉氏や織田信長と対立した。1602年、本願寺が東西に分派すると寺も東西に別れる。
 藤島城は足羽七城の一つで、北朝方の斯波高経の支城の一つだった。新田義貞はこの城を落とすために味方の加勢に向かうが、途中、燈明寺畷で敵と遭遇し戦死している。城は西超勝寺の一帯と伝わり北側に土塁が残る。

(山門)

(山門の左に建つ藤島城趾碑)

(本堂。1948年の福井震災で倒壊寸前となるが、長い年月をかけて修築を行い2000年に竣工する)

(岡倉天心の先祖の墓)

(本堂の裏手に残る藤島城の土塁の一部)

(蓮如の像)

(庫裡)


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永平寺(曹洞宗大本山)

住所:福井県吉田郡永平寺町志比5ー15

 曹洞宗永平寺派の総本山。中国で悟りを開いた道元は帰国後、京都で仏法を説いていたが、1243年に波多野義重の所領に招かれ越前に移り住む。翌年、大仏山の中腹に寺を建立し、1246年に永平寺と寺号を変えた。道元は門弟と共に当寺で修行に励んだが、体調を崩し京都に戻るとそのまま亡くなっている。その後も永平寺は座禅修行の寺として栄え、現在でも70余りの建物が建ち並ぶ大寺院である。

(入り口)

(参道)

(瑠璃聖宝閣)

(ここから入って建物が見学出来る。もちろん有料)

(傘松閣内の広間)

(1749年に再建された寺の中で最古の建造物・山門)

(中雀門と仏殿。仏殿は宋の時代の建築様式を模している)

(1843年に改築された法堂(はっどう)。朝のお勤めなどに使われる)

(法堂から仏殿の方面を望む)

(大光明蔵)

(1881年に改築された道元の霊屋・承陽殿(奥に少しだけみえる建物)。歴代住職の位牌や、道元を越前に招き永平寺を開基した波多野義重の位牌がある)

(結城秀康(墓には徳川秀康と刻んであった)の母の墓。承陽殿と承陽門の間に建つ。1879年に承陽殿が被災した際、墓も被害を受けたため翌年に建て直された)

(瑞雲閣)

(松平家廟所)

(門前町で買ったお土産・鬼作左。ウケ狙いではなくお店の人から一番美味しいと勧められたので購入した)

感想:結城秀康の母の墓がなぜここにあるのかお寺の方に聞いたのですが、上の方が全部行事に出られており修行僧の方しかおられず詳しいことが分かりませんでした。
 とにかく広かった・・・。歩き疲れてしまいました。
 戦国時代には一向一揆によって全焼したという悲しい歴史もあるようです。


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高岳寺(有馬家菩提寺)

住所:福井県坂井市丸岡町篠岡23ー8

 天台宗。1655年、有馬家の菩提寺として日向延岡に建立された。有馬家が延岡、越後糸魚川、丸岡に移封されるに伴い一緒に移転され、丸岡では豊原寺の一角に移された。幕末までは延岡の初代藩主・直純、2代・康純、丸岡初代藩主で3代・孝純の墓しかなかったが、1926年に東京の本覚院から墓が移される。1948年の福井震災で墓と建物が倒壊したが、現在は修復されている。

(本堂)

(不動明王堂)

(1709年に建てられた六地蔵堂)

(弁財天。この先に有馬家の墓所があるが、お寺の方に声をかけて拝観料を払わないと入れません)

(有馬家の歴代当主と妻の墓)

(有馬直純の墓(中央)。本多家と大久保家の権力争いの一端「岡本大八事件」に翻弄された晴信の息子)

(直純の妻の墓(右から二番目))

(直純が亡くなった際に殉死した十三士之墓)

感想:福井のお寺では、どこも六地蔵が祀られていました。他の県のお寺にもあったかなあ・・・。あまり記憶がないです。


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