清洲城(織田信長の居城)

住所:愛知県清須市朝日城屋敷1-1

 清洲城は室町時代に尾張守護職・斯波氏が築城。1476年に守護所だった下津城が戦乱によって焼かれ、清洲に移ってからは尾張の中心となる。戦国時代に入ると斯波氏は衰退、代わりに織田氏が台頭して清洲城の城主となった。
 信長が岐阜城に移るとその嫡子・信忠が城主となったが、本能寺の変で亡くなったため、信長の次男・信雄が城主となり城の大改修を行なっている。1590年、信雄が豊臣秀吉の勘気に触れ改易されたため、豊臣秀次が城主となった。1595年、秀次も豊臣秀吉の勘気に触れ処刑されたため、福島正則が城主となる。
 正則が関ヶ原の戦いで安芸・広島城に移封されたため、徳川家康の四男・松平忠吉が城主となるが、忠吉が病死し、家康の九男・義直が城主となった。
 1610年に家康が尾張の首都を清洲から名古屋に移すよう命じたため、清洲城は廃城。「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野になろう」と歌われた通り、清洲は荒廃してしまう。
 現在は1989年に建てられた模擬天守がある。

(清洲城跡の碑)

(模擬天守)

(織田信長の像)

(濃姫の像)

感想:清洲城跡と信長像のある清洲公園の間は線路が走っているので、行きづらかったです。


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三河刈谷城(水野氏の居城)

●三河刈谷城
住所:愛知県刈谷市城町
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、石垣、濠
標高:8メートル/比高:6メートル

 西三河の西端に位置し西の境川より先は尾張だった。当時は三河湾が城の南まで入り込んでいた。天文2(1533)年、水野忠政が築城。忠政の娘は徳川家康の母として知られる於大の方である。戦国時代は水野氏、佐久間信盛が城主を務め、近世になると深溝松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏と2万石前後の譜代が城主を務め明治維新を迎えている。
 維新後、建物は破壊され、太平洋戦争中は高射砲の陣地となり荒れ果てたが、現在は亀城公園として整備され市民に親しまれている。

(大手門跡。門の場所については下にスクロールするとある刈谷城現況対象図を参照。クリックすると別のタブで拡大表示される)
大手門跡

(仕切門跡)
仕切門跡

(三の丸跡に建つ刈谷市郷土資料館。無料で入れる)
三の丸跡

三の丸跡

(焔硝蔵跡(火薬庫のこと)。現在は豊田自動織機 情報技術研究所が建っている)
焔硝蔵

(三の門跡)
三の門跡

(二の門跡)
二の門跡

(二重櫓跡。段差があるので昔は濠があったのだろうか)
二重櫓跡

(昭和34(1959)年に東海地方などで大きな被害を出した伊勢湾台風の追憶碑)
伊勢湾台風の追憶碑

(公園入口。この辺りに辰巳櫓があった。VRで見ようとしたがモバイルは苦手なので、どうしても見ることができず諦めた)
公園入口

(本丸跡の碑)

(公園。切岸や土塁と思われる場所もあり僅かに城の雰囲気を残していた)
公園

公園

公園

公園

(刈谷城址碑と二の丸跡の碑)

(戍亥櫓跡に建つ十朋亭)
戍亥櫓跡

(熊村口門跡)
熊村口門

(濠)

濠

(公園の北に平成31(2019)年に建てられた刈谷市歴史博物館)
刈谷市歴史博物館

刈谷市歴史博物館

感想:再訪した2023年8月は日本全国が最高気温を記録しており倒れそうなくらい暑かったです。

(刈谷城現況対象図)
刈谷城現況対象図


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三河田原城(戸田氏・三宅氏の居城)

住所:愛知県田原市田原巴江

 1478年頃、今川氏に属していた戸田宗光が築城。戸田氏は田原城を拠点として渥美半島を制覇した。その後、戸田氏は三河の松平氏とも手を結んで、うまく戦国時代を乗り切っていた。しかし1547年、織田氏の勢いが盛んになると、今川氏に送られるはずだった松平家の嫡男・竹千代を奪い取り、織田信秀に渡してしまったため、今川氏の恨みを買い、田原城は落城させられてしまう。
 以降、今川氏の領地となり家臣が入ったが、桶狭間の戦いで今川氏の力が衰えると徳川家康が東三河を制圧し、家臣の本多氏が入った。1590年、徳川家が関東に移封させられると、吉田城主・池田輝政の家臣が入っている。だが池田家も移封されたため、戸田氏、ついで三宅氏が入り明治維新を迎えた。
 現在は桜門や石垣などが復元されている。

(堀)

(桜門)

(枡池)

(二の丸櫓)

(三の丸跡に建つ護国神社)

(二の丸跡に建つ巴江神社の鳥居。田原城主・三宅氏の先祖、児島高徳と三宅康貞を祀っている)

(巴江神社の拝殿)

(近くの蔵王山から見た夜景)

感想:中にあった博物館は渡辺崋山と絵が中心でした。崋山は田原市では英雄なんですね。
 近くの蔵王山は景色がいいので、一緒に行くのをお勧めします。


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