中国・九州史跡巡り2010(8日目前半:宇佐神宮・杵築城・木下延俊の墓・石垣原古戦場)

 2010年8月18日(水)、中津のホテルを朝の7時半には出発。だがすでに暑い・・・。

66.宇佐神宮・・・宇佐市南宇佐2859。豊前一宮。全国にある八幡宮の総本宮。九州南部にいた隼人を服属させる過程で八幡神が成立したといわれる。
感想:通称・USJらしい。とにかく広い。

(大鳥居)

(西大門)

(上宮。この神宮は二礼四拍手一拝が基本)

(下宮)


67.杵築城・・・杵築市杵築15-1。1394年、木付氏によって築城された。1587年、島津軍の猛攻を受けたが撃退してからは別名・勝山城とも呼ばれるようになった。木付氏が城を去った後、何度か城主が変わるが1645年に松平氏が入り明治維新を迎える。公園として整備され1970年には模擬天主が建てられた。
感想:なんかこう・・・昭和な香りのする模擬天主だった。

(園内にあった石塔群)

(模擬天守)

(模擬天守から守江湾を望む)


68.松屋寺・・・速見郡日出町1921。日出藩主・木下家の菩提寺。初代藩主・延俊は豊臣秀吉の甥で小早川秀秋の兄、今回の旅で廻った岡山県の足守藩主・利房の弟にあたる。
感想:住職さんから木下家、秀頼の子・国松と日出藩の関係などを教えていただいた。もっとお話を聴きたかったのだが時間がなかったので適当なところで切り上げた。

(本堂前にある日本一のソテツ)

(木下延俊の墓)


69.吉弘神社・・・別府市石垣西6-6-19。石垣原の戦いで散った大友軍の将・吉弘統幸を祀っている。統幸は大友義統に西軍につくことを反対したが聞き入れられず、仕方なく主君のために戦い戦死している。

70.石垣原古戦場・・・別府市南荘園町。西軍に呼応して旧領奪回を狙う大友義統と、東軍に与した黒田如水が激突した戦い。兵数と指揮官の能力の差で如水が勝利している。
感想:最初、普通のお宅の庭かと思った。九州は「原」と書いて「ばる」と読む地名が多いが、それは朝鮮半島の影響だと聞いたことがある。

(石垣原古戦場碑。この奥に供養碑などがある)

71.吉弘統幸陣所跡・・・別府市観海寺。大友軍の右翼・吉弘統幸が陣を構えた場所。
感想:公園の駐車場だから仕方がないけど、車が・・・。

72.大友義統陣所跡・・・別府市南立石本町。
感想:かなりの高台にある。

・おまけ。激戦地だった古戦場橋近くにあった薬局。地名をそのまま取っただけの名前だけどかっこいいからつい写してしまった。

73.黒田如水本陣跡・・・別府市鶴見。現在は碑があるのみでただの公園になっている。

74.七ツ石・・・別府市荘園。この辺りで七度にわたって戦い周辺の原野は血に染まったという。

(案内板のそばに建つ稲荷神社)


 もう数カ所ほど石垣原の戦いに関する史跡があったけど、時間が無くてと思って別府市を去った。人生初の別府市だったが温泉には入らなかった。

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中国・九州史跡巡り2010(7日目後半:中津城・赤壁寺・福沢諭吉旧居)

 雰囲気があんまり変わりませんが、ここから大分県です。

63.中津城・・・中津市二ノ丁1273。1587年、九州攻めの功で豊前の一部を与えられた黒田如水が築いた城。その後、黒田家が筑前に移封され細川家が入ると支城として残り、のちに忠興の隠居場となる。小笠原家を経て奥平家の城となる。天守閣は1964年に再建されたものである。
感想:石垣などは現存のもので復元天守と合っており雰囲気は良い。

(天守閣)

(誘殺された城井鎮房を祀る城井神社)

(天守閣から城内と市街地を望む)

(中津のゆるキャラ、あっかんべ~。どうも微妙なんですが・・・)

64.合元寺・・・中津市寺町973。通称・赤壁寺。宇都宮鎮房が中津城で誘殺された際、家臣はこの寺で奮戦したが全員討ち死にした。その時、宇都宮家の家臣の地で白壁の一部が真っ赤に染まった。その後、何度塗り替えても血痕が浮き出てくるため壁全体を赤く塗ったという。
感想:話は良く聞くので一度来てみたかった場所。

(赤壁。観光のために塗っているとしか思えないくらい綺麗に塗ってあるため、あまり歴史を感じないなあ・・・)

(お願い地蔵)

65.福沢諭吉旧居・・・中津市留守居町586。福沢諭吉が育った場所。


 まだ15時くらいで余裕があったけど、体力に余裕がなかったのでホテルに戻って体力回復に努めた。何しろ明日が今回の旅で一番多くの史跡を廻るからな。

本日の感想:写真を整理していると構図が適当なのが自分でよく分かる。これから先もそうだけど、暑さでそれどころじゃなかったんよ・・・。ほんまに・・・。
 その暑さと体力の消耗で耶馬溪にある後藤又兵衛の墓は諦めた。だって遠いんだもん。

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中国・九州史跡巡り2010(7日目前半:門司城・高田又兵衛の墓・小倉城)

 2010年8月17日(火)、高速道路の夜間割引を使うため朝の3時半にホテルを出発。途中、山口県のPAで寝て休憩していたので朝の7時半にようやく北九州市に上陸。

57.門司城・・・北九州市門司区門司。源平合戦の時代、平知盛が源氏との戦いに備えて築城したのが最初といわれている。戦国時代には、大内氏と大友氏、大内氏滅亡後は毛利氏と大友氏が九州の入り口に当たるこの城をめぐって激しい争奪戦を繰り広げた。一国一城令によって廃城となる。
感想:遺構らしきものはほとんど見当たらなかった。和布刈公園は何度も来ているが城に行くのは初めて。

(本丸跡にある碑)

(下関方面を望む)


58.福聚寺・・・北九州市小倉北区寿山町6-7。小倉藩主となった小笠原忠真が菩提寺として創建した。大寺院であったが、1866年の第二次長州征伐で建物の多くが焼失し、しかも長州藩が本陣としたため荒廃した。
感想:小笠原忠真廟所はお寺から少し離れたところにあり、しかも入ることが出来なかった。残念・・・。

(境内)

(小笠原忠真廟所)


59.生往寺・・・北九州市小倉北区京町4丁目4-37。槍の名人として知られる高田又兵衛の墓がある。
感想:参拝は自由なんだけど、柵に囲まれていて案内板を読むのと写真を撮るのに非常に苦労した・・・>< 魚眼レンズでもない限り、全体は撮れんで。

60.小倉城・・・北九州市小倉北区城内2-1。1569年、毛利氏が城を築いたといわれる。関ヶ原の戦い後、細川忠興が改築し城下町を形成した。細川氏が肥後に移封された後、新しい城主となった小笠原氏の居城となる。しかし1866年の第二次長州征伐で長州藩に破れた小倉藩は撤退の際に自ら火を放ったため、建物の全てが灰燼に帰した。現在の天守閣は1959年に復元されたものである。
感想:10年振りやのう。近くにでっかいショッピングモールができていた。小倉城といえばバーベキューをやっている人がいるというイメージがあったのだが、この日はいなかった。

(堀と石垣)

(旧第十二師団司令部の正門)

(復元天守入口では小倉城マスコット・とらっちゃがお出迎え)

(復元天守)

(大手門跡)


61.浄喜寺・・・行橋市大字今井1802。浄土真宗のお寺。村上水軍の流れを汲んでいる。石山合戦の際、住職の良慶は領民を連れて西に向かい、途中、安芸の門徒とも合流して近畿に上陸した。そして合戦で教如から「命の恩人」と呼ばれるほどの活躍をしている。石山合戦後は上杉景勝に加勢するため越中に向かうが、本能寺の変が起こると九州に戻った。細川・小笠原氏の庇護を受けている。
感想:次の目的地である天徳寺と勘違いして「宇都宮氏のお墓はどこですか?」と聞いてしまった。それでも住職さんがいい方でご丁寧に本堂などを案内してくださった。失礼しました・・・。暑さで頭がやられていたということで許してください。

(山門)

(本堂)

(村上水軍井戸。昔は海のすぐそばにあり村上水軍の城があったらしい)


62.天徳寺・・・築上郡築上町大字本庄361。宇都宮氏(城井氏)の菩提寺。宇都宮長甫・鎮房・朝房の墓がある。宇都宮氏は伊予への移封を拒み、最後は黒田如水に誘殺されたことで知られる。
感想:とにかく山の中を走ったという印象がある。

(宇都宮鎮房の墓)


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