中国・九州史跡巡り2010(9日目後半:大友宗麟の墓・佐伯城・長宗我部元親神社)

98.月桂寺・・・臼杵市大字臼杵本丁。臼杵城主・稲葉氏の菩提寺。非公開。
感想:この寺が月桂寺なのか自信がありません・・・。

99.臼杵城・・・臼杵市臼杵丹生島91。1562年、大友宗麟が島だった当地に築城。宗麟は本拠地を府内から臼杵に移して北九州を支配した。1586年、島津軍が豊後に攻め入った際、国崩と呼ばれる大砲で撃退した話は有名。大友氏改易後は何度か城主が変わるが最終的に稲葉氏が城主となっている。現在は埋め立てられ臼杵公園となっており、宗麟が戦った当時の面影はない。
(天守櫓跡)

(卯寅口門脇櫓)

(国崩のモニュメント。奥のプレートは例によって大友宗麟公像)


100.宗麟公園・・・津久見市津久見字ミウチ4189-1。1587年、津久見の居館で亡くなった大友宗麟はキリスト教式の墓に葬られたらが、同年にバテレン追放令が出たため、仏式に建て直された。1977年にはキリスト教式の墓も新たに建てられている。
感想:駐車場完備で公園の整備も行き届いている。本当に大分の方からは慕われているんだな。

(仏式の墓。荒廃したのを見かねた人物が1800年頃に建て直したもの)

(キリスト教式の墓)

(大友宗麟の像)

(大友宗麟の胸像。かなりお疲れな感じ)


101.佐伯城三の丸櫓・・・佐伯市大手町。佐伯城の藩主の居城が三の丸に移った際、藩の正門として創建された。
感想:佐伯城にも行こうと思ったが、体力が残っていなかったので諦めた。

102.養賢寺・・・佐伯市城下東町9-21。佐伯城主・毛利家の菩提寺。
感想:「寺は非公開だが、お墓の参拝は可能」とのことだったので、そっと参拝して帰った。そのまま行っても問題ないと思うが、事前に連絡をしておいた方が無難。
(山門)

103.大日寺・・・佐伯市船頭町2-37。1608年に毛利氏の祈願所として創建された。初代住職・秀乗は長宗我部元親の息子だったと伝わっている(秀乗は妻帯していないので子孫は残っていない)。以下に秀乗の略歴を記しておく。
 秀乗。俗名は長宗我部秀親。元親の三男で塩飽諸島(香川県の丸亀市や三豊市の北に浮かぶ島々)の領主で朝鮮出兵ではのちに佐伯藩の藩祖となる毛利高政に従って朝鮮出兵で奮戦した。関ヶ原の戦いでは東西どちらにもつかず、戦後に世を捨てて高野山に行き僧となる。やがて佐伯に移り住むと、そのことを知った高政に招かれ大日寺の住職となる。
感想:長宗我部秀親については長宗我部ファンならいろいろと突っ込みたい気持ちはあるでしょうが、それは抑えてください。所縁のない佐伯市で長宗我部氏の名前が出るということは、本当に長宗我部一族とどこかで関係があったのかもしれません。
(本堂と不動堂)


104.長宗我部元親神社・・・佐伯市鶴見梶寄浦。下梶寄海水浴場のすぐそばにある。この地区に土佐路姓が多いことから土佐から渡ってきた人達が建てた神社ではないかといわれている。
感想:どうも関ヶ原の戦い後、土佐を追われた長宗我部旧臣がここに移り住んだらしい。宿毛からだと船で20数キロしか離れていないので、ありそうな話である。
 ここは鶴御崎の端でめっちゃ遠かった・・・。途中から携帯の電波が入らなくなるし・・・。

(鳥居)

(祠。非常に分かりやすい名前である)

(神社近くから北西を望む。晴れた日には日振島も見えるらしい)


 鶴御崎には長宗我部の墓と呼ばれるものがあるが、間違いらしいので行かなかった。ということで本日はこれにて終了。
本日の感想:島津軍の豊後乱入のことを大分では「豊薩の陣」と呼んでいるらしく、あちこちでその呼称を目にした。今日もあちこちでいろんな方にお世話になった。ありがとうございました!!

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中国・九州史跡巡り2010(9日目前半:戸次川古戦場)

 2010年8月19日(木)、本日は長宗我部デー。まずは戸次川を案内してくださる方と合流。

84.成大寺・・・大分市上戸次利光。創建時期は不明。元々は鶴賀城内にあった。1236年、戸次氏の祈願所となる。1586年、島津軍の鶴賀城攻めで焼失。1648年、現在地に再興される。現在は寺籍を無くし地区が管理をしている。
感想:ということでここは正式には寺ではない。
 ここで地元の方に長宗我部氏・十河氏・仙石氏の評判、四国連合軍と島津軍の戦術などについてゆっくりと説明を受けた。

(鶴賀城主・利光宗魚と成大寺住職の墓)

(信親公御供之衆の碑。雪蹊寺にあるリストを刻んだものらしい)

85.千人塚・・・大分市上戸次利光(だと思う)。鶴賀城の攻防戦で戦死した死体を集めて埋葬したものである。個人宅にある。
感想:昔は鶴賀城の攻防戦や戸次川の戦いで戦死した兵士のための塚らしきものが地区のあちこちにあったらしいのだが、区画整理でほとんど撤去されたらしい。

86.勝光寺・・・大分市大字竹中中竹中3378。1196年、大友能直が源頼朝の菩提を弔うために建てた寺。一時、荒廃したが肥後の細川氏の庇護を受け復興している。
感想:なぜここが細川氏の庇護を受けたかというと、参勤交代の宿を確保するため幕府から戸次地区の一部が与えられていたからである。
 南こうせつさんのご実家で若い頃はずっとここで練習をされていたらしい。そして住職さんはこうせつさんのお兄さんでやはり歌が上手く「出前歌説法」で全国を講演して廻られているらしい。
 なんでここに来たのか理由は覚えていない。戸次川の戦いとは関係がなかったと思う・・・。
(山門)

87.鏡城・・・大分市大字竹中。四国連合軍が島津軍にどう対処するか軍議を開いた場所。ここで渡河が決定し戸次川の戦いが始まった。
感想:山頂に行く道が非常に狭かった。自分の車だったら麓において登っただろうな・・・。ここからだと戸次地区全体が良く見渡せる。
(鏡城山頂全景。二の丸か本丸のどちらからしい。碑があるが城とは関係がない)

(鶴賀城方面を望む。下に流れているのが戸次川(大野川)。この辺りが戸次川の戦いでもっとも激戦が繰り広げられた地点)

(上記の場所よりやや北川の中戸次辺りを望む。橋の右側の河川敷が大野川合戦まつりの会場)

88.長宗我部信親終焉の処・・・大分市上戸次利光。この辺りで長宗我部信親が戦死したと伝わっている。1988年に長宗我部一族と家臣の子孫、地元の方々によって碑が建立された。
(後ろの竹藪が信親が戦死した場所とあとから聞いた)

89.戸次川古戦場跡・・・大分市中戸次。
感想:この辺りに島津・四国連合の両軍がひしめいていたと思うと感慨深いですなあ・・・。

(古戦場跡。正面に見える山が鏡城)

(大野川と鏡城)

90.豊後鶴賀城・・・大分市上戸次利光。元々は豊後の豪族・緒方氏の城だったが、1196年に大友氏が入り、地元の豪族を一掃すると一族を入れた。1586年、島津軍に包囲された鶴賀城を救援に向かった四国連合軍だったが大敗。援軍の望みを絶たれた鶴賀城は奮戦したものの落城してしまう。
感想:二の丸に広場があるので、そこに駐車することができる。ただし道が軽自動車でもぎりぎりの幅で鋪装もまったくされておらず地元の方以外は麓から歩いて行った方が安全。

(二の丸にある利光越前守宗魚終焉之地。近くに建立した方の名簿があったが全員利光さんだった)

(二の丸にある鶴賀城址の碑)

(堀?)

(本丸)

91.長宗我部信親の墓・・・大分市上戸次。

92.十河一族慰霊碑・・・大分市上戸次。戸次川の戦いで戦死した讃岐の大名・十河存保をはじめとする十河一族の慰霊碑。
感想:十河同族会が建てたと聞いたことがある。慰霊に来る一族の方がおられるらしいのだが、高知の方が団体で来る日は絶対に避けるらしい。

93.鶴賀城戸次川合戦之碑・・・大分市上戸次。1588年に建てられた碑。戦いのあった12月12日には慰霊祭が行なわれる。

94.長宗我部信親の鎧塚・・・大分市上戸次。信親の鎧が埋めてあったと伝えられている場所。

95.土佐武士の墓・・・詳細は不明。地元の首藤家先祖の墓とも言われている。
感想:長宗我部信親の墓・十河一族慰霊碑・鶴賀城戸次川合戦之碑・長宗我部信親の鎧塚・土佐武士の墓は同じ敷地内にある。
 暑さで意識がもうろうとしていてあまり記憶がない・・・。写真がまともに撮れているだけでも奇跡だ。

96.願行寺・・・大分市中戸次佐柳4158。1586年、島津軍が攻めて来た際に焼失したが、1593年に梅厳和尚が再興している。梅厳和尚は長宗我部信親の引導を渡しており、当寺には信親と利光宗魚が位牌があり現在も永代供養をしている。
感想:ちょうど地域の方が集まっている最中でした。お邪魔しましたm(._.)m

(庭。この辺りの名所らしい)

97.念仏坂・・・大分市上戸次。島津軍と鶴賀城にいた大友軍が激突した古戦場。両軍とも多くの死傷者を出した。


 ここで戸次川の戦いに関する史跡巡りは終了のため、案内して下さった方とはお別れ。本当に本当にお世話になりました。ありがとうございましたm(._.)mm(._.)m

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中国・九州史跡巡り2010(8日目後半:松平忠直の霊廟・府内城・大友屋形跡)

75.浄土寺・・・大分市王子西町8―35。徳川家康の孫で越前の大名だった松平忠直の霊廟がある。乱行を幕府に咎められ豊後に流され、この寺に埋葬された。
感想:住職さんが気さくな方だった。霊廟内の撮影許可、ありがとうございました!

(忠直公廟)

(霊廟内部。奥の中央が忠直の逆修塔(生前に建てる墓石)。手前右側がのちに建てられたもの。奥の左は忠直の愛妾・お蘭の墓)

76.神宮寺浦公園・・・大分市勢家4-6-87。16世紀、この辺りに南蛮船が来たと推定さ建てられた。
(南蛮貿易場址の碑)

(大友宗麟の像。これから大分県内で何度も宗麟の像を見ることになる)

77.府内城・・・大分市荷揚町4。1597年、石田三成の妹婿・福原直高によって築城された。その際、用材を領内の他、長宗我部氏にも提出を求めたという。1599年に福原氏が改易になると早川氏が入ったが関ヶ原の戦いで西軍に付き改易。竹中重利が入り城の増築を行ない城下町を整備したが、息子・重義の代に改易された。続いて入った日根野氏も1代で断絶。しかし大給松平氏が入ると安定して明治維新まで藩主となる。現在は城趾公園となっており、城内には大分県庁・文化会館などがある。
感想:大給松平家は二万石だったそうだが、城は豊後一国を支配していてもおかしくないような規模である。維持が大変だったのではないだろうか・・・。

(堀と復元櫓)

(廊下橋。二の丸と山里丸を結んでいる)

(復元櫓その2。どれが何という櫓か確認する余裕がなかったので名前か分からない><)

(大友宗麟の胸像。でも、宗麟と府内城はいっさい関係がない。大分県の英雄だからということで建てられたのだろう)

78.遊歩公園・・・大分市大手町。
(伊東ドン・マンショ像。顔が微妙・・・。似たような顔のおばちゃんが近所にいた記憶がある)

(西洋音楽発祥記念碑と像。日本人の子供の表情が間抜けなこと)

(すぐ近くの大手公園にあるザビエルの像)

79.大友氏遺跡・・・大分市顕徳町3。大友宗麟の館跡。京都の花の御所を忠実に再現した守護館だったといわれる。
感想:何の工事をしていたのか良く分からないが工事中だった。

80.大友屋形跡・・・大分市上野丘西10。大友氏の館跡。13世紀後半に築造され次第に整備されていったといわれる。大友宗麟の父・義鑑が殺された「二階崩れの変」はここで起こったと伝わっている。現在は碑と天満宮があるのみ。
感想:大友氏遺跡との違いが良く分からなかった。大友氏遺跡は宗麟が新たに造った館で大友屋形跡はそれ以前に使用されていた館だったんだろうか? 大友氏に関する資料を見ればすぐに分かるんだろうが・・・。

(館跡全景)


81.松平忠直居館跡・・・大分市津守。松平忠直が豊後に流された際、住んだ屋敷跡。敷地は2200坪もあったという。忠直は当地で寺社仏閣の再建などに力を尽くした。現在は碑があるのみ。
感想:結構、忠直は自由を許されていたんだな。押し込められていたようなイメージがあっただけに意外。
 ここは道が狭い上にバスが通るので車での移動が非常に大変だった。


82.松平忠直の墓(六角堂)・・・大分市津守。上記の館跡に霊廟が建てられたが明治になって別の場所に移され、1927年に現在地に移され六角堂が新築された。
感想:ここの登り口の看板に「真田栗毛」というのがあって「何だろうな~」と思っていたけど、疲れ切っていたので行かなかった。後で調べたら真田幸村の馬を忠直が愛馬にしており、その馬を葬った墓だったそうな・・・。真実では無さそうだけど行っとけば良かった。
 ここは迷った。とにかく迷った。近くまで来たんだけど山の裏側に出てしまい登り口が分からず散々うろついた。

83.大友宗麟の像・・・大分市要町(大分駅)。
感想:ほんま、宗麟の像はえっとあるね。それだけ大分市民から慕われているのだろう。岡崎市は徳川家康の像が4体もあるのに、まったく慕われていないけど(名前くらいはさすがにみんな知っている)。

 これで終了。よ、予定通り全部行けた・・・。絶対無理だと思った。ホテルに戻って風呂入ってすぐ寝た。明日は九州旅行の中でのメインが待っているので。
本日の感想:別府市があんなに坂だらけだとは思わなかった。自転車での移動は辛そう。あと別府市って山の中にある海のない市だと思っていた。湯布院と勘違いしていたんだと思う。

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