松巌山宗生寺(不焼寺観音堂、小早川隆景の墓)

●松巌山宗生寺(崇聖寺。不焼寺観音堂)
住所:福岡県宗像市大穂937
駐車場:あり

 曹洞宗。本尊は釈迦如来。文明15(1483)年、許斐(このみ)城主・多賀出雲守隆忠が亡くなった父の菩提を弔うため創建した。開基は周防の泰雲寺の四世・器庵祐歳。天正15(1587)年、小早川隆景が宗生寺の桂翁栄昌に帰依して菩提寺とし100石を寄進する。
 近世になると福岡藩主・黒田長政が50石を寄進し、黒田忠之や黒田光之が山林3600坪の寄進や伽藍の建立を行うなど福岡藩からの篤い庇護を受けた。
 不焼寺観音堂は大穂村の北東の堂田地区にあったが、永亨元(1429)年に現在地に移築されたという。慶安2(1649)年、黒田忠之が再建した。本尊の馬頭観音は行基の作と伝えられ33年に2回開帳される。

(山門。小早川隆景が城主だった名島城の搦手門を黒田長政が移築した)
山門

山門

(舎利殿と霊光殿)
舎利殿と霊光殿

(本堂。昭和27(1952)年に焼失したが昭和29(1954)年に再建されている)
本堂

本堂

(許斐城主・許斐氏の墓。中央に建つのが許斐宗家に反旗を翻して敗北した許斐三河守氏任の墓)
許斐城主・許斐氏の墓

(宗像氏貞室の墓。宗像大社の大宮司・宗像氏貞が亡くなると宗像氏は豊臣秀吉によって領地が取り上げられたため、氏貞の妻は宗生寺の門前にあった端泉院に入り尼となる。そして亡くなると宗生寺に葬られた)
宗像氏貞室の墓

(小早川隆景と殉死した四人の家臣の墓。隆景の墓は遺髪を埋めた遺髪塔(宝篋印塔)で家臣の墓は五輪塔である)
四人の家臣の墓

小早川隆景の墓

小早川隆景の墓

小早川隆景の墓

小早川隆景の墓

(観音堂への登り口)
登り口

(燈籠)
燈籠

(鐘楼堂。梵鐘は昭和19(1944)年に供出されたが、平成2(1990)年に再建された)
鐘楼堂

(本堂)
本堂

参考文献:福岡県の歴史散歩、宗生寺のパンフレット、福岡県の地名

感想:小早川隆景の墓所は道があまりよくないのでシューズなどで参拝した方がいいです。特に雨の日は滑ります。



筑前町立大刀洗平和記念館(大刀洗飛行場跡)

●筑前町立大刀洗平和記念館
住所:福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
駐車場:あり

 第一次世界大戦後、飛行機の軍事的利用への期待が日に日に高まったため大日本帝国陸軍は大正8(1919)年に現在の福岡県三井郡大刀洗町、朝倉郡筑前町、朝倉市にまたがる地域に大刀洗飛行場を建設した。現在の大分県日田市から材料を運んで地元民を含む労働者や馬などが陸地を運んで完成させている。
 静岡や朝鮮半島への飛行実験が行われ、昭和4(1929)年から昭和15(1940)年には民間の国際空港としても利用された。昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると軍事基地として重要性が高まり大刀洗陸軍飛行学校が開校し、飛行場の前には軍人や生徒を目当てにした店が軒を連ねる。昭和20(1945)年3月、アメリカ軍の大規模爆撃を受けて飛行場と周囲の住宅は壊滅的な被害が出て飛行場は閉鎖となった。
 戦後、平和への情報とメッセージを発信するため旧太刀洗駅舎を利用して博物館が設立。平成21(2009)年10月、飛行場跡地に現在の大刀洗平和記念館が開館した。

(建物)
記念館

(ゴジラ-1.0で活躍した大日本帝国海軍の震電が展示してある。後ろにプロペラがあるエンテプッシャー式という独特のフォルムで人気が高い)
震電

震電

(零式艦上戦闘機三二型。太平洋戦争の緒戦で活躍した二一型の改良型である)
零式艦上戦闘機三二型

(零式艦上戦闘機三二型と震電)
零式艦上戦闘機三二型と震電

(大日本帝国陸軍の九七式戦闘機。一式戦闘機・隼の一つ前の主力戦闘機だった。陸軍では特攻機としてもっとも多く使用された)
九七式戦闘機

 飛行機ばかり見ていた訳ではなく展示も見ていた。飛行場の歴史、昭和20年の空襲のことなど。やはり一番見ていて辛かったのは飛行場で練習し特攻機に乗って出撃した当時の若者達の写真。16歳くらいの幼い顔をした男子もおり、いろいろと考えさせられるものがあった。

参考文献:筑前町立大刀洗平和記念館公式サイト、大刀洗町史、福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」

感想:大刀洗平和記念館ができる前の個人運用されていた頃の博物館に行った記憶があります。陸軍の戦闘機・隼のエンジンを見た記憶がありますが定かではないです。
 Tシャツ好きの友達にお土産として震電が描いてあるTシャツを買いました。



宮ノ陣神社(将軍梅。懐良親王の陣跡)

●宮ノ陣神社(将軍梅)
住所:福岡県久留米市宮ノ陣5-12-1(字 宮瀬)
駐車場:あり

 正平14(延文4,1359)年、後醍醐天皇の皇子・征西将軍宮懐良親王が菊池氏、名和氏などを率いて少弐頼尚ら北朝の軍勢とぶつかった筑後川の戦い(大保原の戦い)で懐良親王が陣を敷いた場所が宮ノ陣と呼ばれるようになった。天正14(1586)年、筑前岩屋城攻めから帰陣する島津家の重臣・上井覚兼が「高良山領宮之路」に泊まっている。近世には宮地(みやのじ)村になった。
 明治12(1879)年頃、高良神社の宮司・船曳鉄門ら有志が久留米市合川町に小さな祠を建てて懐良親王の甥・良成親王を祀る。明治21(1888)年現在地に移転し、明治35(1902)年に社殿を改築した。明治44(1911)年には懐良親王の霊も合祀している。

(鳥居)
鳥居

(参道)
参道

(拝殿)
拝殿

(本殿)
本殿

(御神牛というらしい)
御神牛

(将軍梅。懐良親王の御手植の紅梅という伝承がある。最初の木が枯れたため、ひこばえ(切った草木の根や株からはえ出た芽)を繰り返して現在のように広がったと考えられている)
将軍梅

将軍梅

将軍梅

(明治33(1900)年、皇太子だった大正天皇が参拝されて松を御手植された)
御手植の松

参考文献:筑後志、久留米案内、久留米市誌 上編、久留米公式観光サイト ほとめきの街、福岡県の歴史散歩、福岡県の地名、現地の説明板

感想:大正天皇が松を御手植されたことを『久留米案内』は「千萬年の後に至るまで三井郡(当時ここは三井郡宮ノ陣村だった)の一角に大光輝(大きな名誉or大きな輝き)を加えたりと云うべし」と讃えています。戦前なので当然ですが表現がオーバーで笑ってしまいました。
 この日はゴールデンウィークなのに真夏のように暑く仕事でも悩み事があったため参拝に集中できませんでした。