横岳山崇福寺(黒田如水、黒田長政ら黒田家の菩提寺)

●横岳山崇福寺(黒田如水、黒田長政ら黒田家の菩提寺)
住所:福岡県福岡市博多区千代四丁目7番79号
駐車場:あり

 臨済宗。本尊は釈迦三尊。仁治元(1240)年、宋から帰国した湛慧が大宰府横岳に寺を建立した。湛慧は宋から帰国する際に同じ師匠から学んでいた円爾に日本で寺を建立してを招聴することを約東しており、湛慧は円爾を招いて開堂式を行う。以降、崇福寺は宋からの帰国僧との関係が深かった。弘安3(1280)年の記録には元寇で活躍した筑前の守護・少弐経資の庇護を受けていたことが記載されている。
 文永8(1271)年、宋で学んだ南浦紹明が崇福寺に入り緊張感の高まる元(モンゴル)との外交を行う少弐氏の補佐を行った。30年余りも臨済宗大応派の派祖となる南浦紹明が崇福寺に滞在したことで大応派の総本山的な立場となる。室町時代には室町幕府が監督する官寺で九州の領主からの土地の寄進が行われたが、室町幕府の権威低下などで次第に衰退。戦国時代には筑前に影響力を持った大内氏、大友氏などの庇護を受けた。天正14(1586)年に島津軍が岩屋城を攻めた際の兵火で焼亡する。
 天正15(1587)年、小早川隆景が筑前の大名になると寺領を与えられ、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで黒田長政が筑前の大名になると現在地に移転、再興され黒田家の菩提寺となった。

(入口。向かって左に車道があり、その先に駐車場がある)
入口

(福岡城本丸表御門を移築した山門。県指定有形文化財である)
山門

(境内の様子と塔頭の心宗庵。過去には博多の商人・島井宗室が建立した瑞雲庵があった)
境内

境内

境内

境内

境内

(名島城から移築した唐門)
唐門

(土日祝日のみ参拝できる黒田家墓所。土日祝日も一般(?)の墓地からは入ることができず、北にある門からのみ墓所に入ることができる)
黒田家墓所

黒田家墓所

黒田家墓所

(黒田如水(官兵衛)の墓。写真では伝わらないが、墓石が3メートルくらいの高さがあったと記憶している)
黒田如水(官兵衛)の墓

黒田如水(官兵衛)の墓

黒田如水(官兵衛)の墓

(黒田長政の墓)
黒田長政の墓

黒田長政の墓

(一般の墓地に建つ島井宗室の墓。特に案内がないので探し回った。墓地の北側、黒田家墓所の南門の近くにある)
島井宗室の墓

島井宗室の墓

(墓地にあった黒田家の墓)
黒田家の墓

参考文献:福岡県の地名、福岡県の歴史散歩

感想:上記のように墓所の門が開く時間が制限されていたため参拝できることはないと思っていましたが、合わせて予定を組んで参拝できました。
 福岡市の中心地にある寺に駐車場があるわけがないと思い、近くの有料駐車場に駐めて行きましたが山門の前にありました。



孤峰山西光寺(尼子経久、山中鹿介ゆかりの梵鐘)

●孤峰山西光寺
住所:福岡県福岡市早良区内野2丁目7-13
駐車場:あり

 浄土真宗。文明元年(1469)に創建されたと伝わる。
 国宝の梵鐘は、紀年銘のある鐘としては日本で5番目に古く福岡県太宰府市の観世音寺の梵鐘と同型である。銘文には「承和六年鴨部立造便伯書国金石寺鐘(後略)」とあり、承和6年(839)に伯耆国鴨部郷の金石寺の鐘として鋳造された。伯耆国鴨部郷は現在の鳥取県西伯郡南部町鴨部と推定され、伯耆の鴨部氏が金石寺を創建し、梵鐘を鋳造したと考えられている(鳥取県倉吉市石塚の石塚廃寺塔跡が金石寺だという異説もある)。
 金石寺の廃寺後の経緯は不明だが、永正7年(1510)に尼子経久が伯耆にあった梵鐘を出雲大社に寄進した。出雲大社は境内の鐘楼に吊るしていたが、寛文2年(1662)に神仏分離したため、島根県出雲市大社町の別当寺だった松林寺に払い下げられる。
 明治維新後、松林寺は経済的困窮から、明治22年(1889)に梵鐘を島根県松江市の金物店に約100円で売却。その後、大阪府の古物商の大津庄兵衛が買い取り、明治30年(1897)に西光寺が360円で購入し現在に至る。
 当初は梵鐘の文化的価値が知られていなかったが、昭和16年(1941)に九州帝国大学講師の鏡山猛らが調査を行い、その価値が明らかになり戦時中の金属供出を免れた。
 また、尼子氏の家臣・山中鹿介幸盛が梵鐘を陣鐘として使用し、永禄2年(1559)に島根県出雲市高岡町の多福寺に寄進した後、多福寺が松江市の金物店に売却したという説もある。

(山門)
山門

(本堂)
本堂

(梵鐘。毎月1日と16日に一般公開されている。参拝したのが公開日でなかったため、外から頑張ってガラス越しから撮影した)
梵鐘

梵鐘

梵鐘

梵鐘

梵鐘

参考文献:福岡県の地名、大社町史 下巻、鳥取県の歴史散歩、あしあと 米子図書館古文書を読む会九十回の歩み、国宝・重要文化財仏教美術 九州 1(福岡)、早良区 彩食健美の玉手箱、現地の案内板

感想:地図で見ると山の方にある田舎の寺かと思ったら住宅街の中でした。大都会の福岡市を甘く見ていました。
 地元の伯耆と山中鹿介幸盛関連ということで、ずっと参拝したいと思っていた寺でした。鹿介なので西光寺(さいこうじ→再興)という寺号が合いますね。冗談はともかく、もし鹿介が出雲大社から持ち出した話が本当だとしたら永禄2年ではなく、尼子再興戦が始まる永禄12年(1569)だと思います。



菊池武光の銅像(大原合戦での大刀洗の場)

●菊池武光の銅像(大原合戦での大刀洗の場)
住所:福岡県三井郡大刀洗町山隈
駐車場:あり

 正平14(延文4,1359)年、南朝方の菊池武光が大原合戦で北朝方の少弐頼尚、大友氏時らに勝利し敗走する大友軍を山隈原まで追撃し小川を渡って血のついた太刀を洗った。その故事から小川は大刀洗川と呼ばれるようになる。大刀洗川は朝倉郡地区町を源流として大刀洗町と小郡市を流れ久留米市で筑後川に合流する一級河川である。
 現在は大刀洗公園として整備され町民の憩いの場になっている。

(大刀洗公園全景。平成15(2002)年までは菊池武光の銅像の辺りだけが整備されていて菊池公園と呼ばれていたようだ)
大刀洗公園全景

(公園の中央を流れる大刀洗川。この辺りの字名は武光が渡河したことから菊池渡という)
大刀洗川

(昭和5(1930)年、秩父宮が当地を見学されたことを記念して建てた碑のようだ)
記念して建てた碑

(菊池武光公大刀洗之場の碑)
菊池武光公大刀洗之場の碑

(昭和12(1937)年11月3日に建てられた菊池武光の銅像。同年7月には日中戦争が勃発しており、時期的に国威発揚という狙いがあったのだろう。昭和20(1945)年の大刀洗飛行場の空襲の際に銅像にも機関砲の銃弾が当たり、馬の尻に銃痕が残っている)
菊池武光の銅像

菊池武光の銅像

菊池武光の銅像

(おまけ。遊具が兜の形をしていたのは菊池武光と関係があるのだろうか。ズームできないカメラしか持っていないため、この大きさが精一杯だった。おっさんが近くで遊具の写真を持っていたら通報されるので近寄れなかった)
兜

参考文献:福岡県の地名、大刀洗町史

感想:南側に菊池渡橋という橋があったようで、それも見ておけば良かったです。
 30年間、ずっと行きたいと思っていましたが、やっと念願叶いました。