三光院(亀井茲矩ゆかりの寺)

●三光院
住所:鳥取市鹿野町鹿野1023
駐車場:不明

 真言宗。808(大同3)年、同町の岩見谷に創建されたと伝わる。戦国時代になると同町鹿野下町に移転された。天正16(1588)年に鷲峰山の周囲で洪水があった際、水谷川から不思議な光が発せられる。これを知った鹿野城主・亀井茲矩は当寺の住職・隆養と地元の住民に発光源を探させたところ、薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩が見つかった。そこで茲矩は発見された場所(同町鹿野上町)の淵を埋め立て3つの像が光っていたことから三光院と号させ像を安置し、入仏式を行って鹿野城の鎮護とする。
 亀井家が津和野に移封されると荒廃し、寛永18年(1641)年に現在地に移された。本尊の木造薬師如来立像は県の保護文化財に指定されている。

(本堂)
本堂

(六地蔵)
六地蔵

(石仏)
石仏

感想:薬師如来立像は県内の特別展でも私は見た記憶がないです。


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因幡荒神山城(因伯の要衝)

●因幡荒神山城
住所:鳥取市鹿野町河内
駐車場:なし
遺構:曲輪・土塁・竪堀
標高:466メートル/比高:276メートル

 築城年代は不明だが、城のそばを三徳山方面に抜ける滑石坂と佐谷越が通る因伯の要衝だった。因幡民談記や因幡誌によると城主は武田高信の家臣・矢田七郎左衛門と草香部氏だという。天正9(1581)年頃、鹿野城主・亀井茲矩からの年貢の催促に矢田氏の支配する農民が応じなかったため、茲矩の攻撃を受けて落城した。矢田氏は倉吉市に落ち延び商人となって繁栄したと伝わる。
 元亀2(1571)年5月、当城には尼子再興軍に味方する勢力が籠もっていたが毛利軍の山田重直が落としている(「山田家古文書」)。織田と毛利の戦いが激化してきた天正8(1580)年には織田に反発し鹿野城を出た一部の兵が当城に籠もった(「藩中諸家古文書纂」)。天正9(1581)年6月には毛利軍が織田と南条に備えるため兵と兵糧を補充し、吉川元長が普請を命じている(「吉川史料館所蔵文書」)。その後は不明だが鳥取落城後は茲矩や羽柴秀吉によって攻略されたと思われる。

(入口。分かりづらい)
入口

(祠。これが荒神さんなんかなあ)
荒神さん

(祠から更に上に登ると平場に出る。周囲に城の遺構がないことから、おそらく前に荒神さんがあった場所で城とは関係がないと思われる。ここに兵がいても孤立するだけだし…)
平場

(平場の北側を登る以外、まともな道がない。検索すると西から直登した方もおられるようだ)
北側

(しばらく起伏のある尾根が続く)
尾根

(尾根が終わったところが本番で砂地を登らないといけない)
砂地

(切岸に到着)
切岸

(城域の北東にある曲輪群に出た)
曲輪

(曲輪群その2)
曲輪

(土塁かなあ…?)
土塁

(堀切)
堀切
堀切

(主郭。広い。毛利軍の普請によるものだろう)
主郭
主郭

(県の縄張図だと西に畦状竪堀があるのだが分からんかった)
竪堀

(全景)
全景

(城の東を流れる佐谷川)
佐谷川

感想:降りる際、迷ってしまった上に滑って大変でした。その砂まみれのまま鳥取市であった午後の講演会に出ました。東にも曲輪群があったらしのですが危険なので行ってません。
 入口を教えて下さった地元の方、ありがとうございました!!


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伯耆往来をあるく(下市~御来屋)に参加した(旧名和町編)

 伯耆往来をあるく(下市~御来屋)に参加した(旧中山町編)の続きです。

・後醍醐天皇休み石・・・天皇が腰掛けたという伝承のある岩。
後醍醐天皇休み石


 伯耆往来だった大山町豊成の前谷地区の街並み。
前谷

 休み石を過ぎて数百メートル先にある嫁ごろし坂に到着。井戸が涸れた際、池からこの坂を登って水を運んだことからそう呼ばれたらしい。農業用水で苦労したところは大体、嫁ごろしと呼ばれる。

(嫁ごろし坂)
嫁ごろし坂

(坂の途中にあるサイノカミ)
サイノカミ

・弁慶太刀懸けの清水・・・ここで弁慶が太刀をかけて水を飲んだという。旧名和町にも弁慶伝説があるのか。
弁慶太刀懸けの清水


 線路を越えて南側に移動。ここでトンネルの和名が隧道(ずいどう)だと知った。隊道だと思うよね。前も調べた気がするけど忘れてしまって…。

(後日訪れた隧道。北側は昭和に通った国道9号の下にあることからコンクリート、南側は明治に通った山陰本線の下にあるからレンガ造りになっている。案内された学芸員の方のお気に入りらしい)
隧道
隧道
隧道

・にごり池と五輪塔・・・昔からある堤らしい。この五輪塔が気になったのだが、にごり池から見つかったこと以外は分からないそうな。
にごり池
五輪塔


 伯耆往来だった上坪地区の街並み。前谷地区と似ており自分がどこにいるのか分からなくなる。
上坪

・氏殿権現道道標・・・かつて名和長年を祀っており現在は名和神社奥宮である氏殿権現への道を知らせるためのもの。安政5(1858)年、湯梨浜町野方の長右衛門さんが建てたのだが、なぜ湯梨浜町の方が建てたのかは知らない。
 側には大山道道標も建つ。
氏殿権現道道標

・佐渡五輪塔・・・佐渡の商人がこの付近で亡くなったため建てられた供養塔。その霊が病人の夢に現れ治したことから流行病を治す神様として信仰されたという。現在はすっかり忘れ去られている。旧名和町には佐渡五輪塔が加茂地区と古御堂地区にもある。
 同じ大山町の佐渡五輪塔と言えば私は荘田佐渡五輪塔が最初に頭に浮かぶ。あとこれ五輪塔じゃないよな…と皆さんが話していた。

(コロナも退散…とはいかないか)
佐渡五輪塔


・くじら橋・・・ここを渡る際に使用していたのだろう。鯨に関係があるという伝承がある。公事料(荘園制で年貢以外の雑税や夫役(ぶやく)の総称)との関係も指摘されている。ここが現在の大山町の御来屋・名和・西坪の境であることから、ここで公事料を取り立てていたのだろうか。
 取りあえず鯨の化石ではないらしい。
くじら橋


 そして伯耆往来を通って…
伯耆往来

 山陰最古の駅舎・御来屋駅に到着。ここで解散した。
御来屋駅

感想:天気には恵まれなかったけど、ほとんどが史跡巡りに行くような場所じゃないので新鮮だった。自分の癖なのだが主催者になんでもかんでも質問するので、さぞ迷惑していたと思う。申し訳ありません。
 楽しかったので断られなかったら次回も是非参加したい。