赤崎台場跡(鳥取藩の築いた台場の一つ)

●赤崎台場跡
住所:鳥取県東伯郡琴浦町赤碕(字 ヲナガケ)
駐車場:不明

 国指定史跡。文久3(1863)年、大阪の天保山砲台を警固していた鳥取藩士が英国船を砲撃。報復を恐れた鳥取藩は菊港や藩倉の防備のため、武信佐五右衛門(のちに佐伯友光と交代)を責任者に任命して築造した。当時の鳥取藩は財政難だったため大庄屋の河本家や地元の農民の協力で築かれている。鉄砲十二斤砲一門、御銘入鉄造五寸径砲一門、鉄砲三斤砲一門が配備され34名が警備に当たったが実戦を経験しないまま役目を終えた。
 長い間良好な状態で残っていたが、昭和33(1958)年から始まった国道9号の工事の残土で埋め立てられる。他の鳥取藩の台場と違い半円形だったことが分かっている。

(台場全景。この下に今も良好な状態で埋まっている)
赤崎台場

赤崎台場

赤崎台場

赤崎台場

(日本海)
日本海

参考文献:現地の案内板、とっとり文化財ナビ琴浦町公式サイト、日本城郭大系 第14巻、赤碕町郷土誌

感想:台場の名前は赤”崎”で地名は赤”碕”だそうです。花見潟墓地も近く、たまに散歩に来ています。



橋津台場跡(鳥取藩の築いた台場の一つ)

●橋津台場跡
住所:鳥取県東伯郡湯梨浜町長瀬
駐車場:あり

 国指定史跡。橋津川の西の海岸沿いにあり日本海に浸食され北側が消失しているいる。
 幕末、外国船が日本近海に現れるようになったため鳥取藩も防備を固めるため台場を築こうとした。しかし財政難のため計画が進まない。文久3(1863)年、大阪の天保山砲台を警固していた鳥取藩士が英国船を砲撃。報復を恐れた鳥取藩は吉村又兵衛らを責任者として橋津台場を築き、六尾反射炉(鳥取県東伯郡北栄町六尾)で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲各1門の大砲が備え付けた。
 長瀬の大庄屋・戸崎久右衛門ら10名が取締役となって総勢141名が守備にあたる。明治4(1871)年、明治政府が封印したことにより実戦を経験しないまま役目を終えた。現在は橋津お台場公園として整備されている。

(幕末、因幡二十士が橋津から脱出して長州に向かったのを記念して建てられたらしいが来航と刻んであるから美保関から戻ってきた時のことだろうか。幕末に詳しくないから分からん)
因幡二十士

(東側の土塁)
東側の土塁

(日本海と台場。日本海によって台場の1/3が浸食されたらしい)
日本海と台場

日本海と台場

(その後、いろんな場所の土塁を撮影)
土塁

土塁

土塁

土塁

土塁

参考文献:鳥取県の地名、現地の案内板、とっとり文化財ナビ

感想:北側以外は土塁が良好な状態で残っています。さすが台場王国・鳥取県。



金龍山雲光寺(小松城主・小松氏ゆかりの五輪塔)

●金龍山雲光寺
住所:鳥取県西伯郡南部町御内谷1205

 曹洞宗。足利義満や小野小町などの位牌が安置されている。

(山門)
山門

(鐘楼)
鐘楼

(本堂。平成29(2017)年12月に火災で焼失したが再建された。一枚目が再建前、二枚目が再建後)
本堂

本堂

(観音堂。毎年、8月17日には戦国時代に寺の北東にあった小松城内で無礼講の盆踊りを催されていたのが始まりという小松谷盆踊(県無形民俗文化財)が行われる)
観音堂

(摩尼車)
摩尼車

(仏足石)
仏足石

(雲光寺の墓地の片隅に建つ小松城主・小松氏ゆかりの五輪塔。最初は小松城の麓の竹藪にあったが西伯郡南部町の金田地区の民家の入口に移され、更に1990年以降に現在地に移転された。移転された経緯などは不明)
小松城主・小松氏ゆかりの五輪塔

感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。