松平忠利
生没年:1582〜1632年/ 身分:三河吉田3万石の大名/ 官位(通称、号):主殿頭
【深溝松平】『家忠日記』の著者として有名な松平家忠の長男。忠利の家は深溝(ふこうづ)松平家と呼ばれる譜代の家柄。三河深溝で生まれる。関ヶ原の戦いの際に家忠が伏見城の守備につくと、領地の下総小見川城を守った。上杉征伐に従軍し、その際に家忠が鳥居元忠らと共に戦死したことを知ると、弔い合戦のために西進に従うことを希望したが、小見川城は佐竹義宣に対して要害の地となるということで留め置かれる。
1601年に幕府から本多正信を通じて常陸国内での加増の話があったが、板倉勝重を通じて旧領の三河深溝を希望し、その通りに三河深溝1万石に移封された。1602〜1610年の間に駿河の富士川の普請、彦根城の普請、矢作川の普請、名古屋城の普請などを行う。1612年に深溝松平家の今までの功績を評され三河吉田3万石に移封される。
【大坂の陣で活躍】大坂冬の陣に従軍し、豊臣軍が仁和寺(になじ)の堤を破壊し川の氾濫を起こさせ、徳川軍が進めなくなると、伊奈忠政と共に堤を補強し氾濫を止め、水を長柄や神崎に捌(は)けさせた。陣の最中は天満口を守っていたが、和議が成立すると尼崎城の守備につく。夏の陣では徳川頼宣の補佐を務めた。1617年に豊川に掛かる吉田大橋の架け替えを行なう。1632年6月5日死亡。愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺に葬られた。
管理人・・・尼崎城の守備の際にこんな話しがあります。和議成立後に薄田兼相が神崎にいた建部政長のところに来て「尼崎は元は我々の領地だったので今年の租税を取り立てる」と言いました。そこで政長が尼崎城の忠利に相談したところ、忠利は兼相のもとに使者を遣わし「この地の租税を取り立てるためにそこにいると聞きました。もしここに来ると言うなら、私はここを守備します。帰られよ」と伝えました。それを聞いた兼相は忠利は侮れないと判断して大坂に引き返したそうです。
また夏の陣で徳川頼宣につけられる際にはこんな話があります。二条城で本多正純を通じて「頼宣公は幼いので水野重仲と共に付き添ってやってくれ」と頼まれました。しかし忠利は「もし再び戦いが起こった際には先鋒に任ぜられたいと思っています。よろしくお願いします」と答えたが、正純は「命令に背かないでください」と取り合いませんでした。そこで忠利は直接、徳川家康に願い出ましたが「頼宣には良い家臣が少ない。お前は累代の家臣で家臣も少なくない。どこにいても忠義を尽くすのは変わりがない。よろしく補佐をしてやってくれ」と頼まれたので、頼宣についたそうです。
参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・寛政重修諸家譜
UPDATE 2005年11月22日
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