薄田兼相

(すすきだかねすけ)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):隼人正

博労淵周辺
現在の博労淵周辺

【狒々退治】本姓は橘。大坂城一の怪力の持ち主であったと伝えられている。兼相は大坂の陣での活躍よりも狒々(ひひ)や山賊を退治した話しで有名な岩見重太郎と同一人物という説があることの方が知られている。

【橙武者】兼相の名が知られるようになったのは、1614年11月29日、徳川方の石川忠総軍と蜂須賀至鎮軍が木津川口に築かれた博労淵の砦を攻撃した博労淵の戦いであった。兼相はここの守将であったが、なんと彼は前夜から娼婦の家に泊まり込んで砦を留守にしており、大将不在のまま戦闘に突入してしまったのだ。そのため、砦は簡単に落ちてしまい、兼相が大坂へ戻ったときにはすでにすべてが終わった後であった。
 この戦いで兼相は『橙武者』とあだ名された。橙は見てくれは立派だが、まずく食べられないため正月の飾り物などにしか利用されない。要するに、兼相も見かけは立派な武者だが中身は使い物にならない無能な武将であると酷評されたのである。

兼相の墓
羽曳野市誉田7丁目679にある兼相の墓

【死んででも汚名をそそいで見せる】翌年の5月上旬、兼相は後藤基次真田幸村隊らと共に大和路に出撃する。この時、武士としての最大の屈辱を味わっていた兼相には悲壮な覚悟があった。『俺は橙武者じゃない。この戦いでそれを証明しなくては。たとえ死んだとしても、、、』。兼相は夏の陣にすべてを賭けた。
 5月6日、薄田兼相軍が主戦場の道明寺に到着したときには、すでに基次が伊達軍の銃弾に倒れた後だった(道明寺の戦い)。兼相は徳川軍の大軍相手に一歩も退かず何人もの敵を討ったが、多勢に無勢、水野勝成の家臣・河村重長に討ち取られた。一説にはこの時、討ち死にせずに薩摩に落ち延びた、という話しがあるが、橙武者の汚名をそそぐために戦っていた兼相がそのようなことをするとはとても思えず俗説であろう。

管理人・・・う〜ん、この人、橙武者の話しと狒々退治の話しが先に出て、本当の実力とかがさっぱり分からないです。個人戦では優れていたみたいだけど、指揮官としての能力はいかがなもんだったんでしょうか?
 大阪の堂島の富豪で有名な「天王寺屋」はこの人の末裔らしいです。この人死んでまで汚名をそそごうとしましたが、今でもどの本にも橙武者のことが一番目立つように書かれていますから結局駄目だったみたいですね。1度失ったものを取り戻すのは難しいですね。

参考文献真田戦記戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略

UPDATE 1999年11月6日
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