今日で山陰にいることが出来るのが最終日。今日も史跡巡りを決行。今回は前回行かれなかった鳥取市西部(旧・気高郡)を廻ることにした。
1.石井垣城・・・鳥取県西伯郡大山町石井垣にある。南北朝時代に伯耆の守護代・糟屋弥二郎がいたが、名和長年によって落とされた。その後、箆津豊後守が城主となった。現在は春日神社となっている。
友達に連れて行ってもらった城。まったく知らなかった。南北朝時代はあまり・・・。
ここはとにかく蚊が多かった!まあブンブンブンブンかなわん。神社を見て回ると早々に退散。ちなみに案内板には「因幡に類例のない・・・」と書いてあったが、ここは伯耆です。しっかりしてくださいな、教育委員会。
2.因幡勝山城・・・鳥取県鳥取市気高町勝見にある。戦国時代には山名・尼子・毛利・織田と目まぐるしく支配者が変わったらしい(因幡の城は大抵その経緯を辿っているが)。現在は公園となっており、遺構などは見あたらなかった。この公園だけで西国三十三ヶ所巡りが楽しめる(?)ようになっている。
地図を見て思いつきで行っただけ。今、こうやってブログを書くまでどんな城かも知らなかった。う~ん、特筆すべきことは無し。
3.亀井茲矩の墓・・・鳥取市気高町上原にある。茲矩は尼子家の家臣で、山中鹿之助に従い尼子家再興のために各地で戦った。後に秀吉の家臣となり因幡鹿野1万4千石の大名となっている。関ヶ原の戦いでも西軍に付き、最終的には4万3千石を与えられた。
善政をしいたので現在でも「亀井さん」と呼ばれて親しまれているそうな(現地の案内板より)。
墓は鹿野城が望める山の上にある。そのせいで前に行った時は土砂崩れで登れなかったが・・・。
その後、せっかく山陰に戻って来たのでそばが食べたかったが、鹿野町のそば屋はどこもいっぱい・・・。そば道場というところが空いていたが、「そばを自分で打たないいけない」と友達から聞いてパス。諦めて焼肉定食を食べた。
4.幸盛寺・・・鳥取市鹿野町鹿野にある。亀井茲矩が舅・山中鹿之助幸盛を供養するために建てたもの。殺された備中高梁から持ってきた鹿之助の遺骨が葬ってある。
鹿之助の墓は歴史を感じさせるものだった。この墓って卵塔形だと思うんだけど、住職さんに多い墓のはず。なんでこの形なんだろう? 鹿之助は出家したことがあったのだろうか。
5.鹿野城・・・鳥取市鹿野町鹿野にある。亀井氏の居城。亀井家が石見津和野に移ると、一国一城令で廃城となった。石垣などが残っている。
う~ん、普通の公園だね。何組かの家族連れがいて、一組は山頂まで登って行った。私たちも山頂に向かっていると途中で雨が降ってきて走って登った。えらかった・・・。
これにて終了。実家に戻って最後の晩餐となった。翌日、愛知県に戻った。
感想:石井垣城はそれなりの縄張りだったので戦国時代も利用されたと思うが、誰が当主だったのか不明。しかし地元とはいえ、よくこんなマイナーな城知っていたなあ。
山陰も探せば南北朝関係の史跡がたくさんあるんでしょうねえ・・・。
私は塩冶・山名・名和・後醍醐天皇くらいしか知らないですが。
こんにちは^^
名和長年の名前が出てきて嬉しいです。
一度、山陰を巡ってみたいです。
>柳葉さんへ
普通、武将の墓だと宝篋印塔か五輪塔が多いですよね。
敗者だと石を積んだだけとかも見ますが・・・。
>キヘイジさんへ
例えば中国地方の人間が関東の国名を間違えることは考えられますが、地元ですからねえ・・・ーー;
マニアックな間違いだとそのまま信じちゃっているってことが、気づいていないだけでありえますよ。あと俗説が史実みたいに書いてあったりとか・・・。
亀井さんは慕われているらしいです。地元の人に尋ねてないので、本当にそうなのか良く分かりませんが。
山中鹿之助のお墓、確かに
変わった形してますね。(武将のお墓ではあまり見かけない・・?)
国名を間違えるとは・・・。失笑ものですね。
この場合は分かりやすい間違いだから良かったものの、これがもっとローカルでマニアックな間違いだったら、それが事実として誤認されたまま・・・なんてこともありそうで恐いです。
亀井茲矩のお墓は立派ですね。
愛されていて良かったなあ。