山陰帰省&史跡巡り2008(5日目:櫻井家住宅・尼子経久の像・塩冶掃部介の墓)

 今日は、昨日休んで体力を回復したので史跡巡りを再開した。今回は通ったことはあるが、史跡には行ったことがない奥出雲(現在は奥出雲町というそのままの名前になっている。横田町、仁多町の方がしっくりくるけどなあ)。
 ここは鳥取県のすぐ隣だけど遠い・・・。中国山脈の中にある町なので道が余り良くなくてきついんだよなあ・・・。
 そんなこんなで昼前には到着した。
1.可部屋集成館・・・島根県仁多郡奥出雲町大字上阿井内谷にある。大坂夏の陣で活躍した塙団右衛門の子孫の方が経営されている。塙団右衛門は夏の陣で戦死したが、嫡男の直胤が広島市安佐北区可部に逃げのび、その後、孫の直重が奥出雲で製鉄業を始め、現在に至る。
 可部屋集成館には塙団右衛門の遺品、たたらに関係した日本刀などが展示してある。また隣の櫻井家(塙団右衛門の妻の姓。陣後に二代目が櫻井姓に改めている)住宅が国指定の重要文化財となっている。
 「島根県で塙団右衛門!?」という意外な関係を知って行ってみた。中には塙団右衛門の鎧や槍などが展示してあり、団右衛門好きにはたまらないところ。
 櫻井家住宅は部屋に上がるのは禁止だったが、人がいたのでどういうことかと思っていたら親戚の方が帰省されていただけだった・・・。お盆だもんな。

(櫻井家住宅日本庭園)

 住宅や集成館の下にそば屋があったのでそこで昼食にした。たまたまそば屋のテーブルで櫻井家ご当主の次男の方と一緒になり、そばを食べながらちょっとだけ話をした。
(そば屋の側を流れる小川)

2.鬼の舌震・・・島根県仁多郡奥出雲町にある。県立自然公園。史跡とは何の関係もない。「阿伊の里に住む玉日女命を恋い慕った和仁(サメ)が、日本海より斐伊川を夜な夜な通い来たので、姫は大岩で川をせきとめ、拒まれた和仁は一層烈しく姫を恋い慕った。その「和仁のしたぶる」が訛って、【鬼の舌震】と呼ばれるようになった(鬼の舌震ホームページより引用)」だそうな。
 特に行く気は無かったが、看板が目についたので行ってみた。景色は確かにいいが、同じような風景がずっと続くので途中で飽きてきたので引き返した。家族連れなら楽しいんだろうね。


3.奥出雲たたらと刀剣館・・・島根県仁多郡奥出雲町横田にある。日本刀の材料となるたたら製鉄によって生み出される玉鋼の作成過程などを紹介している。
 刀にはまったく興味がない私だが、ここは勉強になった。美しい日本刀を作るためにここまでの苦労がいるとは・・・。砂鉄から三日三晩の徹夜で玉鋼を作る職人さんにはただただ頭が下がるばかり。
 ここで奥出雲は終わり。帰りしな隣の広瀬町(現在は合併して安来市)に寄った。言わずとしれた尼子の本拠地・月山富田城があるところである。
4.尼子経久の像・・・島根県安来市広瀬町富田にある。山陰を中心に中国地方を支配した武将・尼子経久の銅像。織田信長とは80年、毛利元就とも50年も生まれた時が違う戦国初期の武将のため、国人衆など支配が室町時代中期のやり方を引きずっており、後の代で苦労する。しかし名将の一人なのは間違いなく、東の下克上の代表が北条早雲なら、西の代表は経久になるだろう。
 銅像が広島方面に向いているのは毛利への牽制?

5.尼子晴久の墓・・・島根県安来市広瀬町富田にある。経久の跡を継いだ尼子家当主の墓。吉田郡山城攻めでの失敗や、新宮党の粛正などで評価は低いが、中国地方の雄となった尼子氏の勢力を保っているので、少なくとも平均以上の能力は持っていたのは間違いない。ただ経久と毛利元就の偉大さのために評価が下がっているだけ。
 月山富田城の麓にひっそりと葬ってある。

6.山中鹿之助屋敷跡・・・島根県安来市広瀬町富田にある。鹿之助は尼子家が滅んだ後も、御家再興のために奮戦した武将。そんな彼が生まれて育ったと言われる場所がここである。
 何を考えてそこまでやったのか同じ山陰人でもよう分からん。手段が目的に変わってしまったような気もするが・・・。

7.塩冶掃部介の墓・・・島根県安来市広瀬町富田の畑の一角にある。月山富田城の城代だったが、富田城奪回を狙う尼子経久にだまし討ちにあって自害した。
 むやみに荒らすと祟りがあるらしい。墓は祟りが無くても荒らさないので、そっと撮影して去った。

 ここで土砂降りとなったので富田周辺の史跡巡りは諦めて実家に戻った。
感想:出雲というと石高も低く経済基盤も弱いイメージがあったが、今回の史跡巡りでそれが変わった。昔、読んだ経久の紹介にも「気候が厳しく平地も少ないところから中国地方の一大勢力に・・・」なんて書いてあったが、出雲地方は美保関などの良好な港、朝鮮半島との貿易、鉄の輸出、近くの石見銀山から獲れる豊富な銀などで、戦国時代は経済的に恵まれていたのではなかったのだろうか。
 山陰で生まれ育ったせいか「こんな田舎じゃあ不利だ」という偏見があったが、出雲は周辺に有力な大名がおらず(大内のいた山口県を除く)経済基盤もしっかりしていたので経久はいち早く戦国大名になれたのだろう。

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山陰帰省&史跡巡り2008(5日目:櫻井家住宅・尼子経久の像・塩冶掃部介の墓)」への2件のフィードバック

  1. 直接じゃあないけど、師匠と弟子のような関係だった、ということですよね。
    経久と元就は50歳も離れており、生きた時代が違うので、微妙なところですねえ・・・。

    銅像は近年のものなのでかっこいいです。それに対して鹿之助の銅像はちょっと微妙です^^;

  2. 経久と元就って、道三と信長の関係性に似ている気がします。
    深い意味はないですけど、相手に与えた影響力がなんとなく。

    にしても、銅像かっこいいなあ。

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