播磨 南山田城(後藤又兵衛出生の地)

●播磨 南山田城(後藤神社)
住所:兵庫県姫路市山田町南山田(字 城山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁
標高:84メートル/比高:8メートル

 16世紀後半に別所氏の家臣・後藤基国が築いたという。ここで基国の次男として生まれたのが大坂の陣などで活躍した後藤又兵衛基次と伝わる。基国が天正6(1578)年から始まった三木城攻防戦で基国が戦死し基次が城主になったというが、諸説あり詳細は不明。

(南山田城の南側は南山田児童公園として整備されている)
南山田児童公園

(遺構のある区域は立入禁止になっている。三段の曲輪と土塁があるらしい)
立入禁止

(周囲や公園との境を回ってみた。城の雰囲気はある)
後藤神社

(公園の一角に建つ後藤神社。天明6(1786)年、村民の大谷長左衛門が後藤一族を祀るため創建した)
後藤神社

参考文献:兵庫県の地名2、歴史と神戸 : 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌 21、武蔵・又兵衛 : 郷土の剣豪たち、郷土の城ものがたり 中播篇、川柳郷土史散歩、現地の案内板

感想:検索すると以前は入れたようですが、現在はご覧の通り立入禁止になっています。



阿波 脇城(武田信玄の異母弟・武田信顕の居城)

●阿波 脇城
住所:徳島県美馬市脇町(字西城山、字大屋敷、字畳屋敷、字新山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀切、土塁、石垣、井戸など
標高:116メートル/比高:70メートル

 吉野川の北に位置しており南西に延びている舌状台地を利用して築かれ、虎が伏せた形に似ていることから虎伏城とも呼ばれる。東以外は断崖のため容易に攻められない地形になっていた。
 藤原仲房が築城し戦国時代には脇氏が居城したという。天文2(1533)年、三好長慶が築城(改築?)し三河守兼則が守備した。弘治年間(1555~58年)以降に武田信玄の異母弟で長慶の家臣だった武田信顕が城主となる。天正7(1579)年、信顕は阿波岩倉城主・三好康俊らと謀って長宗我部元親に通じ三好勢を騙し討ちにした。
 本能寺の変の直前、信顕は織田信長に従っていた三好氏に帰参するが変が起こったことにより元親の勢いが戻り、攻められ落城している。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部親吉が守備した。元親が豊臣秀吉に降伏すると蜂須賀氏が阿波を支配し家臣の稲田氏が入る。寛永15(1638)年、一国一城令により廃城となった。

(城の登り口にある秋葉神社)
秋葉神社

(もっとも北東にある3の曲輪。畑や宅地になっている。位置は下にある概略図を参照)
3の曲輪

3の曲輪

(3と2の曲輪の間にある土橋と横堀Aと2の曲輪)
横堀Aと2の曲輪

横堀Aと2の曲輪

(横堀B)
横堀B

(土塁)
土塁

(南西に突き出している1の曲輪。ここが主郭だったらしい。井戸跡もあった)
1の曲輪

井戸跡

(麓の館跡に建つ脇人神社。長宗我部兵に殺された武田信顕・信定親子を祀る)
脇人神社

脇人神社

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15

感想:今ほど城に興味がなかったので写真が適当です。でももう一度行くほどの遺構ではなさそうです・・・。
 武田信顕については『戦国武将の意外な関係M』に掲載していますので、よかったら読んでみてください。

(概略図)
概略図



千人塚(高天神城の戦死者を葬る)

●千人塚
住所:静岡県掛川市下土方
駐車場:なし

 天正9(1581)年、高天神城が落ちた際の戦死者を葬った。

千人塚

千人塚

感想:お盆に行ったので、とにかく暑かったという記憶しかないです。


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