平成18年8月16日(水)、さすがに疲れたのでこの日は本屋にでも行ってぶらぶらしようかな、と思っていたら、母親が「滅多に帰って来ないんだから、ゆっくりするのは愛知県に戻ってからでもいいんじゃない」と言うので、その助言(?)に従って出かけた。しかもうかつなことに友達と遊ぼうと思っていたら、みんな仕事だったので・・・。そっか、普通はこの日は仕事か・・・ーー;
今回は岡山県の高梁市。距離は120キロくらいかな。高速道路で行くと遠回りになるので、今回は下道の国道180号で行った。
高梁市に行く前にまず途中の鳥取県江府町で江尾(えび)城に寄ってみた。まあ、特になんかあるわけじゃあないけど前からずっと行きたかったので。町役場の方の指示通り、近くの公園に停めて行く。なんか櫓みたいなのが見えてきた。どうも歴史民族資料館らしい。でも今は閉鎖されている。地元の人によると、中世の城だった江尾城跡にこんなもの建てたので、どっかから(どっかの教授?)からえらい怒られたらしい。ついでに遺構も破壊したりしたのだろうか。
遺構は石垣とか残っていました。
それからさらに南下。新見市で食事をした後(新見で新見陣屋とか寄ろうと思ったけど面倒でやめた)、高梁市へ。まずは高梁市中央図書館に車を停めてどこを廻るか決める。いい加減だなあ・・・、今回ここに来る予定は無かったからだけど。
ここはお寺が多くて古い町並みも良く残っているらしい。その辺りを廻ることにした。
車をちょちょっと走らせ、頼久寺へ。ここに来たのは有名なのもあるけど、目的は備中の戦国武将・三村家親&元親のお墓。なんか悲哀を感じる戦国武将ですよね・・・。
次は備中松山城。12年くらい前に行ったときは一番上の駐車場まで行ったけど、狭くてえらい困った記憶があったが・・・今回行ってみたら途中の広い駐車場まで車で乗り入れた後、シャトルバスで入り口まで行くように変わっていた。シャトルバスで入り口まで行き、天守まで登っていく。重要文化財だけあって建物・石垣ともに素晴らしい。こりゃ確かに一見の価値はある。
これを維持していくのって大変なんでしょうね・・・。ということで城をあとにし、再び街に戻る。
降りた後は、街を散策し市街地は終了。
(その隣にある松連寺。朝鮮出兵の際の宇喜多秀家が乗った御座船の天井などがあるが、非公開)
そしていよいよ今回のメイン、高梁市に来たら絶対に行きたいと思っていた阿井の渡場。上月城で捕らえられた山中鹿之助が護送中にここで毛利家に斬られた。戦いとは無情である。
(阿井の渡場近くに建つ山中鹿之助の墓。小さな公園として整備されていた)
そしてそれからさらに奥に車を走らせ、最後の目的地である山中鹿之助の胴墓に着く。首を斬られた鹿之助の首から下を埋葬したもの。墓から30メートルくらい下に案内板があるが、胴墓そのものには何も建っていない。なので、墓に刻んである法名(案内板に書いてある)だけが手がかり(とは言ってもぽつんと古いお墓があるので、行けば分かるけど)。
(山中鹿之助胴墓)
首は皆様ご存じの通り、福山市の鞆の浦にある。こっちもいずれは行くつもり。ということで高梁市での旅は終了。そのまま実家に戻った。その帰り、実家近くの海岸沿いできれいな夕日が見られたので、また撮影する。
そしてそのまま帰宅。帰ってきたときの母親の一言。「毎日、よう出かけるねえ」。ってあんたが出た方がええって言ったやん・・・。
それから親を車に乗せて墓参りに行きました。他人の墓ばかりじゃあなく、自分の先祖の墓にも行っておかないとね。お参りを済ませた後、帰りに近くの川を通ると、盆の最終日なので灯籠流しをやっていました。
ということで、盆も終わったが、まだ愛知県には帰らず明日も出かけます。
>三河さんへ
吉備線ねえ・・・。乗ったらすごいローカルな路線で私も待たされました。
>キヘイジさんへ
復元するとどうなるか大体想像がつきますね・・・^^; きれいはきれいになるんでしょうけど。
鹿之助は戦前は虚像が崇められましたから、その間に整備されたのもあるかも・・・。
あの月山富田城の銅像はいただけませんけど。
おお、凄い石垣! 白壁も美しい!
現代の建築技術で作ってもこうはならないですね。
きっと安っぽくなる(笑)。
鹿之助は人気者だけあって、墓も立派だなあ。
時間がないと思って備中高梁の城下町はまともに見ずに総社へ行ったら、総社から備中高松へ行くのに1時間待ちぼうけをくらったのも今では良い思い出ですw