阿波一宮城(阿波一宮氏の居城、四国攻めの激戦地)

●阿波一宮城
住所:徳島県徳島市一宮町(字城山)
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:141メートル/比高:119メートル

 阿波一宮氏が居城としていた。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部元親軍の最重要拠点の一つとして羽柴秀長率いる大軍との激しい攻防戦が繰り広げられた。

(入口の前にある一宮神社に車を駐められますが駐車料金が必要です。必ず払いましょう)
駐車

(入口)
入口

(経筒出土跡。神宮寺跡を開墾中に経筒が出たとのこと)
経筒出土跡

(登山口とこの先にある倉庫跡の間にある神宮寺谷道)
神宮寺跡

(登山道を登ると竪堀に出る)
竪堀

竪堀

(竪堀の北にある倉庫跡。四国攻めでは曖昧な記憶だと秀長軍が鮎喰川の対岸に陣を構えていたはずなので、ここが最前線だった)
倉庫跡

(倉庫跡から見た北東の景色。四国攻めの時は包囲した秀長の軍勢が見えていたのだろう)
北東の景色

(倉庫跡の奥(南)に進むと曲輪群がある)
南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

(湧水)
湧水

(北から来るとドーンとそびえる才蔵丸の切岸)
才蔵丸の切岸

(才蔵丸と明神丸の間にある堀切。現在は登山道になっている)
堀切

(才蔵丸)
才蔵丸

才蔵丸

才蔵丸

(堀切の先にある竪堀)
竪堀

(門跡)
門跡

(明神丸。礎石があり板葺きの建物があって眺望を楽しむ場所だったのではないかと考えられている。一段下には帯曲輪がある)
明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

(本丸。一宮城といえば、蜂須賀氏の時代に築かれたこの石垣の写真ではないだろうか)
本丸

本丸

本丸

(本丸に建つ若宮神社。一宮氏の歴代当主を祀っている)
若宮神社

(本丸から北に延びる曲輪(釜床跡))
釜床跡

釜床跡

釜床跡

(本丸から南西に進むとある曲輪、堀切、投石用の石)
投石用の石

南西

南西

南西

南西

南西

(更に南西に進むとある小倉丸の虎口、曲輪、土塁。櫓台と書いてあったので櫓があったらしい)
小倉丸

(小倉丸と西の曲輪の間にある竪堀)
竪堀

(小倉丸の西の曲輪)
西の曲輪

(土塁らしいが土橋に見える)
土塁

(椎丸)
椎丸

(水の手丸。上記の椎丸とここは曲輪があるだけで大した防御施設もない。城の北に平野、東から南に谷があって軍が展開できるが、当時西はまともな道もなかったので手薄だったのだろう)
水の手丸

水の手丸

水の手丸

(貯水池)
貯水池

(蔭滝。ここを降る必要があり、かなり危険。貯水池に水が貯まっていなかったので滝は見られなかった。ここにある説明で「貯水池は周囲の曲輪で強固に守られていた」とあった)
蔭滝

蔭滝

蔭滝

感想:広い。とにかく広い。主郭付近などは蜂須賀家の修築でしょうがが他は長宗我部氏の手によるものが多いと思われ、如何にここを重要視していたかが分かります。
 詳しい歴史などについては『廃城をゆく8 決戦の城』を参考にしてください。

(現地の案内図)
現地の案内図


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阿波木津城(篠原自遁と東条関之兵衛の居城。四国攻めの舞台)

●阿波木津城
住所:徳島県鳴門市撫養町木津(字城山)
駐車場:公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、土塁、竪堀、横堀
標高:62メートル/比高:53メートル

 南側は断崖となっており北には城の防御のため流れを変えた中山谷川がある。東の孫右エ門山(字名として残る)と西の小山の間に空堀があった。そして中心部には二つの曲輪があったが、昭和33(1958)年の上水道配水池や採土で遺構は大きく損なわれている。
 築城年代は不明だが城主は阿波三好氏の重臣・篠原自遁で長宗我部元親の阿波侵攻に抵抗した。だが天正10(1582)年の中富川の戦いで元親が阿波の大半を手中に納めると阿波に逃亡している。その後、桑野城主・東条関之兵衛が城主になり、天正13(1585)年の豊臣秀長の四国攻めで激しく抵抗したが、水の手を断たれ開城した。その後は廃城になったようである。

(山の中央は木津山公園として整備されており遺構はない)
木津山公園

(東側に残る竪堀)
竪堀

竪堀

(竪堀を上った先にある土塁と横堀)
土塁と横堀

土塁と横堀

(主郭らしいがひどい藪で見学は不可能だった)
主郭

参考文献:徳島県の地名、日本城郭大系15、三好一族と阿波の城館

感想:公園からは登るのが難しくネットで検索したら城郭放浪記さんのサイトに登り口が記載してあって、そこから登りました。


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阿波重清城(長宗我部と三好の争奪戦の舞台)

●阿波重清城
住所:徳島県美馬市美馬町字城53
駐車場:無し
遺構:曲輪、土塁、堀、虎口
標高:98メートル/比高:34メートル

 南側以外は川が流れる天然の要害。室町時代に小笠原長親が築城したと伝わる。天正6(1578)年、阿波に侵攻していた土佐の長宗我部元親の軍が三好氏側の当城に迫り、元親に従っていた大西頼包は降伏した城主・小笠原長政らを謀殺し城を奪い取った。同年、十河存保軍が3千の兵で攻め奪い返したものの、長宗我部軍の逆襲で再び元親の支配下となる。

(城の周りを囲む二重の土塁と堀)
二重の土塁と堀

二重の土塁と堀

二重の土塁と堀

二重の土塁と堀

二重の土塁と堀

(虎口)
虎口

(曲輪)
曲輪

曲輪

曲輪

曲輪

(曲輪の中心部に建っていた小笠原神社。歴代城主を祀っている。現在は僅かに祠だけが残っている)
小笠原神社

小笠原神社

(2009年に訪問した際の小笠原神社。写真では伝わらないかもしれないが、この時からかなり危険な状態だった)
小笠原神社

(曲輪内にある井戸)
井戸

感想:2009年訪問時は遺構に興味がなく少し写真を撮っただけだったので再訪しました。二重の土塁と堀は必見です。
 予想はしていましたが小笠原神社の倒壊はショックでした。


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