阿波高源寺城(桑野城、高源寺塁。桑野氏の居城)

●阿波高源寺城(桑野城、高源寺塁)
住所:徳島県阿南市桑野町光源寺・車ノ口
駐車場:なし
遺構:曲輪、堀切、土塁
標高:80メートル/比高:71メートル

 別名は桑野城だが東条関之兵衛が居城とした桑野城(ここでは便宜上、関之兵衛の城は本桑野城とする)とは別の城である。西に桑野川が流れ桑野盆地の北西の突き出した場所にある。築城年代と築城者は不明だが、東条氏の一族・桑野河内守康明が城主だった。天正年間(1573~92年)に康明が本桑野城に移ったため、佐藤伊賀守が城主となる。天正10(1582)年、中富川の戦いで康明は高源寺城主のまま三好軍として参戦し戦死したと伝わるが、関之兵衛は長宗我部軍として参戦していたため康明もそれに従っていたと思われる。

(全景)
全景

(登り口から竹藪をよじ登るとⅠの曲輪群に出た。位置に関しては下の概略図を参照)
Ⅰの曲輪群

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

(主郭から西に突き出したⅣの曲輪群。傾斜地果樹用レールあったため降りる道がありそうだったが、知らない道を行くのは危険なので他の遺構を見学した後、Ⅰの曲輪群から帰った)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(主郭の下にある帯曲輪Ⅴ)
帯曲輪Ⅴ

帯曲輪Ⅴ

(主郭の曲輪Ⅵ)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅶ)
曲輪Ⅶ

(曲輪Ⅷと竪堀A)
曲輪Ⅷ

曲輪Ⅷ

曲輪Ⅷ

(曲輪Ⅸ)
曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

(堀切B)
堀切B

堀切B

(曲輪Ⅹ。曲輪とは書いているがⅨとⅩは正確にはただの尾根かな・・・)
曲輪Ⅹ

(堀切C)
堀切C

堀切C

(堀切Cの先も尾根が続く。この先は山林になっており、そこから来る敵を防ぐために複数の堀切が設けてある。北を除く三方は急斜面になっている)
尾根

参考文献:三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15、羽ノ浦町誌 歴史編第一巻

感想:主郭の北側の堀切群などから長宗我部の勢力が改築した可能性が指摘されています。自分の乏しい知識だと徳島県は複数の曲輪以外は堀切や竪堀が多少あるだけで、高知県のように堀切と竪堀を多用するような複雑な城が非常に少ないので、長宗我部の手が入っていると思います。

(概略図)
概略図


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阿波牟岐城(長宗我部元親により落城)

●阿波牟岐城
住所:徳島県海部郡牟岐町牟岐浦(字八幡山)
駐車場:八幡神社の駐車場を利用
遺構:曲輪
標高:57メートル/比高:53メートル

 木材を搬出する牟岐浦を管理するために築城されたと思われる。元亀年間(1570~73年)に築城され城主は牟岐大膳允だったという。天正3(1575)年の長宗我部元親の阿波侵攻で落城したと伝わる。中富川の戦いで牟岐右京之進という者が参陣しており、牟岐氏は元親に降ったようである。

(牟岐港と牟岐城)
牟岐港と牟岐城

(曲輪。墓地になっており遺構と後世の改変の区別がつかなかった)
曲輪

曲輪

曲輪

参考文献:徳島県の地名、三好一族と阿波の城館、日本城郭大系15

感想:麓の放し飼いの犬が私を警戒して吠えながら登ったり降りたりしていたので怖かった思い出があります。
 略歴は牟岐古城が混ざっている可能性があります。


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阿波一宮城(阿波一宮氏の居城、四国攻めの激戦地)

●阿波一宮城
住所:徳島県徳島市一宮町(字城山)
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:141メートル/比高:119メートル

 阿波一宮氏が居城としていた。天正13(1585)年の四国攻めでは長宗我部元親軍の最重要拠点の一つとして羽柴秀長率いる大軍との激しい攻防戦が繰り広げられた。

(入口の前にある一宮神社に車を駐められますが駐車料金が必要です。必ず払いましょう)
駐車

(入口)
入口

(経筒出土跡。神宮寺跡を開墾中に経筒が出たとのこと)
経筒出土跡

(登山口とこの先にある倉庫跡の間にある神宮寺谷道)
神宮寺跡

(登山道を登ると竪堀に出る)
竪堀

竪堀

(竪堀の北にある倉庫跡。四国攻めでは曖昧な記憶だと秀長軍が鮎喰川の対岸に陣を構えていたはずなので、ここが最前線だった)
倉庫跡

(倉庫跡から見た北東の景色。四国攻めの時は包囲した秀長の軍勢が見えていたのだろう)
北東の景色

(倉庫跡の奥(南)に進むと曲輪群がある)
南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

(湧水)
湧水

(北から来るとドーンとそびえる才蔵丸の切岸)
才蔵丸の切岸

(才蔵丸と明神丸の間にある堀切。現在は登山道になっている)
堀切

(才蔵丸)
才蔵丸

才蔵丸

才蔵丸

(堀切の先にある竪堀)
竪堀

(門跡)
門跡

(明神丸。礎石があり板葺きの建物があって眺望を楽しむ場所だったのではないかと考えられている。一段下には帯曲輪がある)
明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

明神丸

(本丸。一宮城といえば、蜂須賀氏の時代に築かれたこの石垣の写真ではないだろうか)
本丸

本丸

本丸

(本丸に建つ若宮神社。一宮氏の歴代当主を祀っている)
若宮神社

(本丸から北に延びる曲輪(釜床跡))
釜床跡

釜床跡

釜床跡

(本丸から南西に進むとある曲輪、堀切、投石用の石)
投石用の石

南西

南西

南西

南西

南西

(更に南西に進むとある小倉丸の虎口、曲輪、土塁。櫓台と書いてあったので櫓があったらしい)
小倉丸

(小倉丸と西の曲輪の間にある竪堀)
竪堀

(小倉丸の西の曲輪)
西の曲輪

(土塁らしいが土橋に見える)
土塁

(椎丸)
椎丸

(水の手丸。上記の椎丸とここは曲輪があるだけで大した防御施設もない。城の北に平野、東から南に谷があって軍が展開できるが、当時西はまともな道もなかったので手薄だったのだろう)
水の手丸

水の手丸

水の手丸

(貯水池)
貯水池

(蔭滝。ここを降る必要があり、かなり危険。貯水池に水が貯まっていなかったので滝は見られなかった。ここにある説明で「貯水池は周囲の曲輪で強固に守られていた」とあった)
蔭滝

蔭滝

蔭滝

感想:広い。とにかく広い。主郭付近などは蜂須賀家の修築でしょうがが他は長宗我部氏の手によるものが多いと思われ、如何にここを重要視していたかが分かります。
 詳しい歴史などについては『廃城をゆく8 決戦の城』を参考にしてください。

(現地の案内図)
現地の案内図


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