金山要害山城(宍道氏の居城)

●金山要害山城
住所:島根県松江市宍道町白石(字 金山)

 応仁年間(1467~69年)の頃から宍道氏の居城だったという。

(城と金山八幡宮の入口)
入口

(金山八幡宮。宍道氏の祖である佐々木氏の氏神だった)
金山八幡宮

金山八幡宮

(南支郭群)
南支郭群

南支郭群

(修復中の石垣)
石垣

(大掘切)
大掘切

大掘切

(二の成)
二の成

二の成

二の成

(城から宍道湖を望む)
宍道湖を望む

(金山八幡宮跡。のちに現在地に移転された)
金山八幡宮跡

(詰の成)
詰の成

詰の成

(椎ノ木成)
椎ノ木成

(枡形虎口)
枡形虎口

(西の麓を走っている木次線)
木次線

(北側の城の入口)
北側

北側

(西にある馬洗い池)
馬洗い池

感想:歴史については『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参照してください。。



水祖神社(山中鹿介幸盛が尼子再興を祈願)

●水祖神社(みおやじんじゃ)
住所:島根県隠岐郡隠岐の島町港町68(字 天神原)
駐車場:不明

 祭神は弥豆波之売命(みづはのめのみこと)、菅原道真。八尾(やび)川の河口に位置し港守護や漁民の神として崇敬されている。創建年代は不明だが、延喜式(醍醐天皇の命により延長5(927)年に完成)に記載のある古社である。ある時、朝廷から派遣された高官(名前は不明)が国境守備のため力を注ぎ、隠岐で亡くなってしまった。この高官に感謝した隠岐の住民が水祖神社に祀ったという伝承が残っている。
 往古は隠岐国造が造営したと伝えられる。天文22(1553)年、隠岐氏の家臣である伊後清兵衛尉が再建した。永禄12(1569)年、尼子再興軍の山中鹿介幸盛が国府尾城主である隠岐氏を頼って隠岐諸島を訪れた際、水祖神社に尼子の再興を祈願したという。
 正保3(1646)年に初代松江藩主の松平直政が再建を行い、直政の息子で二代藩主の松平綱隆が寛文10(1670)年に再建した。近世の社領は2石だった。
 年代は不明だが、八尾川の上流に天神社の祠があったが洪水で流され、水祖神社に流れ着いた。そのため天神社を合祀しており、前述の天文年間から寛文年間の棟札には「天神天満」の社号で記載されている。
 明治21(1888)年、大火によって焼失するが、その後再建されている。

(鳥居)
鳥居

鳥居

(狛犬)
狛犬

狛犬

(拝殿)
拝殿

(本殿)
本殿

参考文献:島根県の地名、西郷町誌 上巻、西郷町誌 下巻、西郷町誌、島根県神社概説、現地の案内板

感想:町内には八田にも水祖神社があり、最初はそこと混同してしまいました。
 山中鹿介が祈願した話は現地の案内板だけにあり、他の参考文献にはなく出典が気になっています。江戸時代の地誌には、「天文末、雲州新山の城落ちて、その敗北の武士、渡海し兵難を逃れ、此所に暫く蟄居せし」との記載があり、第一次尼子再興戦に敗れた再興軍の武士が隠岐の島に逃れ、村のどこかに匿われたことしか伝承にはありません。



赤崎鼻(後醍醐天皇脱出の地)

●赤崎鼻
住所:島根県隠岐郡西ノ島町浦郷(字 赤崎)
駐車場:なし

 元弘3(正慶2,1333)年閏2月24日、後醍醐天皇は隠岐を脱出するため黒木御所を出発した。天皇は鎌倉幕府の監視を逃れるため、地元の住民や神主の力を借りて忍びながら赤崎鼻に到着する。そこで山陰の本州側に行く船に乗り、無事に伯耆の名和湊(現在の鳥取県西伯郡大山町御来屋の御来屋港)に到着した。
 隠岐の民謡「どっさり節」の一節「忍び出よとすりゃ カラスめがつける まだ夜も明けぬにガオガオと 憎や八幡の森ガラス」はカラスが幕府の監視員を指し、八幡の森は美田八幡宮の前の見付島にあった監視所のことを唄っているいう説がある。
 赤崎鼻から船に乗ったのは三位局だという説もある。

(藪になっていて近寄れなかった)
赤崎鼻

赤崎鼻

(おまけ。赤崎鼻から御来屋港を直線で結んでみると約80キロある。実際はもっと複雑なコースを進んでいるので、更に長かった)
直線で結んでみる

(おまけ、その2。赤崎鼻を撮影した場所でレンタサイクルの記念撮影をした)
レンタサイクル

参考文献:なみのあら磯 後醍醐天皇隠岐行在所論文集、大山と隠岐と出雲

感想:西ノ島町の観光案内所で聞いて行きました。