大御神社(日向のお伊勢さまとして崇敬された神社)

●大御神社
住所:宮崎県日向市日知屋1
駐車場:あり

 本殿・幣殿・拝殿は国登録有形文化財。祭神は天照大御神。創建年代は不明だが、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天上界から高千穂に降りて当地を通過した際、天照大御神を奉祀して平安を祈念したと伝わる。神武天皇が東征の際にも武運長久と航海安全を祈願したという。その後、地元住民が社殿を建て天照大御神を勧請した。
 隣接する日知屋城を支配した伊東氏や延岡藩主などから崇敬を受け、民衆からも「日向のお伊勢さま」として篤く信仰されている。脇ノ浜大神宮・日知屋神社などと称していたが、明治12(1879)年、社名は天照大御神の「大御」を取って大御神社と改名した。

(鳥居)
鳥居

(狛犬)
狛犬

(手水舎)
手水舎

(本殿・幣殿・拝殿。昭和11年(1936)に造営されたもので、木造平屋建、銅板葺で、切妻屋根を支える棟持柱を持ち、棟の両端にV字型に千木を突き出す神明造が特徴、だそうです)
社殿

社殿

社殿

社殿

(さざれ石)
さざれ石

(伊勢ヶ浜が近く日向灘が一望できる風光明媚な地でもある)
日向灘

日向灘

(神社の全景)
神社の全景

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、日向市の歴史、大御神社公式サイト日向市公式サイト

感想:とにかく景色が良かったのが印象に残っています。大晦日に参拝したので正月の準備で忙しそうでした。



日向 加久藤城(島津義弘の支城)

●日向 加久藤城
住所:宮崎県えびの市小田(字 城内、廿里)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、虎口、土橋、掘切
標高:284メートル/比高:55メートル

 市指定史跡。永禄7(1564)年5月、島津義弘は伊東氏に備えるため久藤城を修築して加久藤城とし加世田(南さつま市)から移る。同年11月に飯野城に移った島津義弘は加久藤城に夫人を入れ、城将には川上三河守忠智を置いた。
 永禄11(1568)年、伊東義祐の軍勢が桶比良(えびの市原田)に陣を敷いて飯野城を攻撃しようとする。この時、加久藤(覚頭。えびの市の中央)の農民は伊東軍に味方して村を放火するが島津軍が鎮圧した。元亀3(1572)年の木崎原の戦いでは加久藤城が伊東軍からの奇襲攻撃を受けたが撃退している。

(国道268号沿いに案内がある。その近くには麓菅原天神があった)
案内

麓菅原天神

(全景)
全景

(山頂の竈門神社の入口にある大手門跡。下の縄張図の中央になる)
大手門跡

(本丸の虎口。神社の手前の箇所になる)
虎口

(中央の曲輪の本丸に建つ竈門神社。元亀3(1572)年、城内守護のため島津義弘が勧請したという。自由に取れるミカンは無くなっていた・・・。残念)
竈門神社

竈門神社

竈門神社

(その他、本丸の様子。土塁があった)
本丸

本丸

(本丸の東の二の丸。縄張図だと本丸の右になる。ここは荒れていたが土塁は確認できた)
二の丸

二の丸

(二の丸の南にある広い曲輪と南に突き出た曲輪。倒れた標柱が哀愁を誘う。突き出た曲輪は荒れていたが、土橋があった)
南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

南に突き出た曲輪

(新城と呼ばれる東の城域に行こうと思ったが柵があって立入禁止になっていた。後で確認したら南の南方神社から行くことができたらしい)
新城

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、えびの市埋蔵文化財調査報告書第45集 えびの市の城館跡、宮崎県の歴史散歩、「不屈の両殿」島津義久・義弘、現地の案内板、飯野町郷土史、宮崎県神道青年会

感想:竪堀があったらしいですが分かりませんでした。
 ここが宮崎県を回った際に最後に行った史跡でした。最後なのだから、もう少しじっくり見ておけば良かったと後悔しています。
 加久藤城にいた島津義弘の夫人は、義弘が飯野城下の美女に誘惑されないよう、呪法者に命じて呪いをかけたと伝えられています。このため、飯野地区では美女が生まれなくなったという言い伝えがあります。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


土持卒塔婆(光福寺跡。県土持氏の卒塔婆)

●土持卒塔婆(光福寺跡)
住所:宮崎県延岡市吉野町
駐車場:なし

 市指定有形文化財。以前は当地に光福寺があり、境内跡には延岡地方を支配していた県土持氏の土持孫太郎宣綱夫妻とその子の全繁夫妻の卒塔婆が建っている。卒塔婆は阿蘇溶結凝灰岩製で、正面には
文明十四(1482)天
賀傳慶公居士 応仁三(1469)年閏十月十四日 ※全繁
慶阿大禅定門 康正四(1458)天正月二日 ※宣綱
金昇大禅定尼 文明九(1477)年正月廿一日 ※全繁の妻
見海正公大禅定尼 文正元(1466)年八月廿一日 ※宣綱の妻
七月十四日
 と刻んである。※括弧内の西暦は追記

(入口)
入口

(光福寺跡の全景)
全景

全景

(境内跡には五輪塔などがあるが詳細は不明)
五輪塔

五輪塔

(土持卒塔婆)
土持卒塔婆

土持卒塔婆

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、延岡の歴史と文化財、延岡市文化財調査報告書第24集

感想:光福寺については何も分かっていないようです。