●木崎原古戦場
住所:宮崎県えびの市池島、今西(字 西郷田、永田原)
駐車場:あり
県指定史跡。元亀3年(1572年)5月、日向の大名・伊東義祐は一族の4人の大将に数千の兵を付けて、真幸院(まさきいん。えびの市、小林市、西諸県郡高原町一帯)へ派遣し、加久藤城を攻撃させた。しかし、加久藤城の激しい抵抗により落城させることができず、伊東軍は鳥越城に布陣していた後続部隊と合流する。
元亀3(1572)年5月4日、この報告を受けた島津義弘は数千の兵を率いて鳥越城を包囲し、攻撃を開始。伊東軍と鳥越城の南西に位置する木崎原で激戦が繰り広げられたが、水浴びをするなど油断していた伊東軍は崩壊し、大将の一人である伊東又次郎が戦死した。その後、伊東軍は古陣原で踏みとどまったものの、勢いに乗る島津義弘軍に抗しきれず、大将が次々と討ち取られ、約300人(あるいは約560人ともいわれる)の戦死者を出す大敗を喫する。
この戦いを契機に伊東義祐は支配力を徐々に失っていった。
(古戦場に建つ当地出身の方の作品・恕。下記にある三角田の手前に建つ)
(六地蔵塔。島津義弘が島津・伊東両軍で戦死した約800人(数には諸説あり)を供養するため建立した)
(池島神社。当初は水神を祀って池島地区の水難除けと五穀豊穣を願って建てられたが、住民の要望で平成29(2017)年現在地に移転され、その際に精矛厳健雄命(くわしほこいづたけをのみこと。鹿児島県姶良市の精矛神社での島津義弘の神号)も勧請して祭神に加えられている。)
(三角田(みすみだ)。圃場の形が三角になっていることからこう呼ばれており、島津義弘が伊東軍の大将の一人・伊東新次郎を討ち取った場所だという。この時、敵中に突っ込みすぎた義弘を守るため家臣の久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨が戦死した)
参考文献:「不屈の両殿」島津義久・義弘、宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、宮崎の文化遺産 (宮崎の自然と文化5) 、みやざきの文化財情報、えびの市公式サイト
感想:寡兵の島津義弘に対して大軍の伊東義祐が負けたイメージがありましたが兵数は史料によってまちまちのようで実際はそれほど劇的な勝利ではなかったようです。
ここは宮崎県に旅行した際のメインの目的地でしたので着いた時は嬉しかったです。