日向 野首城(野頸城・野久首城。伊東氏四十八城の一つ)

●日向 野首城(野頸城、野久首城)
住所:宮崎県小林市東方 (字 野首)
駐車場:なし
遺構:曲輪、空堀(横堀)、掘切
標高:270メートル/比高:18メートル

 南北と東を岩瀬川で囲まれており南に突き出た形になっている。伊東氏四十八城の一つで米良筑後守が城主だったという。だが、元亀3年(1572)年の木崎原の戦いで筑後守が戦死した後は
・弟の美濃守が城主になったが島津氏に内通して裏切った
・新納伊豆守が城主となるが島津氏の攻勢で野尻城に退去した
 など判然としない。とにかく島津氏の北進により領有するところとなったが一国一城令で廃城になったという。

(西側にある二重の空堀。他の三方は川と崖だが西だけ地続きだったため大規模な空堀が設けてある。この城の一番の見所。六枚の右奥に家が見えるが、そちらは平地で畑や民家がある。遺構の場所は一番下にある国土地理院地図を加工した画像を参照)
二重の空堀

二重の空堀

二重の空堀

二重の空堀

二重の空堀

二重の空堀

二重の空堀

(西に二段の曲輪があった)
西に二段の曲輪

西に二段の曲輪

西に二段の曲輪

(西と中央にある掘切)
掘切

(中央にある大きな曲輪。ここが主郭だろう)
中央の曲輪

中央の曲輪

中央の曲輪

(東の曲輪。東から南にかけて腰曲輪があった)
東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

(中央の曲輪から南に突き出た曲輪。本来は道を挟んだ南北が繋がっていたが、道路を通す際に削って道にしたのだろう。北側は荒れていて少ししか見ていない)
北側

北側

北側

(突き出た曲輪の南側。こちらは陽が当たる箇所が少ないのか北側よりは見学しやすかった。掘切と曲輪が連続してあった)
南側

南側

南側

南側

南側

南側

(南から見た全景。写っていないが橋の下に岩瀬川が流れている。北と東は断崖絶壁なので攻められるのは西と南しかない。そのため空堀と複数の掘切で防備してあったのだろう)
全景

参考文献:宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、小林市史 第1巻、西諸県郡史蹟名勝誌、日本城郭大系 第16巻

感想:整備がしてあり駐車場があれば遺構の状態が良いため見に来る方も多くなるでしょうが、個人の山林のようなので難しいでしょうね。それに見に来る人が増えても小林市にお金を落とす人は少ないでしょうし。私も小林市ではドラッグストアで飲み物を買ったのとファストフード店で昼食を食べたくらいです。
 城の横を流れている川はほとんどの本で浜之瀬川とあります。ただ地図だと岩瀬川になっているので岩瀬川と記載しました。岩瀬川の上流に行くと浜之瀬川になるようですが・・・。本筋と関係ないですが気になりました。

(概略図。国土地理院地図を加工・編集した。クリックすると別タブが開きます)
概略図



聞法山日枝寺三徳院(島津義弘の勝利に貢献した盲僧の寺)

●聞法山日枝寺三徳院
住所:宮崎県えびの市栗下909-1
駐車場:あり

 天台宗。本尊は地神と荒神。市指定文化財。以前は盲僧寺だった。盲僧(めくらそう。もうそう)とは目の見えない僧のことで、琵琶を伴奏し地神経や荒神経を唱えて祓いを行う盲僧を地神盲僧と呼んでいた。

 戦国時代、肥後の聞法山光明院の僧・良音院が馬関田(まんがた。現在のえびの市中央の西寄りの地区)に移り住む。そこで布教活動をしていた弟子の南学院明心に当地で光明院を復興させ聞法山三宝院に改号した。南学院明心の次の住職・真盛(菊一。明久)は島津義弘から加久藤城や飯野城に呼ばれ祈祷や占いを命じられる。
 永禄12(1569)年の菱刈合戦では島津義弘の乗馬が前脚を折るという夢を真盛に占わせたところ、
「大吉です。馬が膝を折れば人歩となるため戦は勝ちます」
 その占いを聞いた義弘は歓喜したという。
 元亀2(1572)年の木崎原の戦いでは間者となって小林城に潜入して伊東軍の動きを知らせ勝利に貢献した。これらにより日向の十四郷の盲僧を束ねる日州盲僧の司となる。真盛は三宝院という号が醍醐天皇ゆかりの京都の三宝院と被ることから三徳院に改号した。
 近世には3石の寺領があったが明治の廃仏毀釈で寺号を失い祓戸神社に改称したが、明治9(1876)年に信仰の自由の政令が出された後に三徳院に復している。昭和43(1968)年、宗教法人になった。

(入口と参道)
入口と参道

(境内)
境内

境内

(歴代住職の墓。中央に開基の明心と二世の真盛の墓が建つ)
歴代住職の墓

(本堂)
本堂

(道を挟んだ林にあった石仏)
石仏

参考文献:宮崎県の地名、加久藤町郷土誌、宮崎県えびの市観光協会、現地の案内板

感想:真盛が菱刈合戦の勝ちを占った話ですが飫肥の常楽寺の覚書に以下のように記載されています。
「弓馬で鎌田刑部左衛門の取次で真盛は島津義弘に召し出された。そこで義弘が夢のことを話すと真盛は勝利間違いなしと申し上げた。義弘は間違いないとはどういうことだと尋ねたところ、真盛はお召しの軍馬が足三つを折った夢は愛馬の足が折れたので勝利は疑いなしと申し上げた(意訳)」
 肝心の勝利間違いなしの理由が全く意味が分からなかったです。
 三徳院に参拝した時は前の道で工事をしており片側交互通行だったため常に渋滞していました。



日向 高鍋城(財部城、舞鶴城。財部土持氏、島津氏、秋月氏の城)

●日向 高鍋城(財部城、舞鶴城)
住所:宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋 (字 旧城内、宮田前)
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、土塁、掘切、濠
標高:69メートル/比高:65メートル

 町指定史跡。東に塩田川、南に宮田川が流れ天然の濠として役目をしていた。築城年代には諸説あり古代からという説もある。
 中世以降、財部(たからべ。小丸川より南の現在の高鍋町を中心とした地域)を所領とした財部土持氏の居城となった。長禄元(1457)年、小浪川の戦いで財部土持氏が伊東祐尭に敗れ滅亡し以降は伊東氏が所有し落合氏が城主となる。天正5(1577)年、伊東氏が島津氏によって没落すると島津氏の家臣・川上忠智や鎌田政心の城となり、高城・耳川合戦では争奪戦の舞台となった。
 天正15年(1587)年に筑前から秋月種長が移封され当地と串間(櫛間)を与えられると、最初は櫛間城を居城としたが慶長9(1604)年に高鍋城に移る。以降は明治維新まで秋月氏が城主となっている。慶長12(1607)年には西側との繋がりを断つため掘切を設けた。寛文9(1669)年、江戸幕府から修築の許可が出た際に名前を財部城から高鍋城に改めている。
 現在は舞鶴公園として整備され高鍋町歴史総合資料館も建てられている。

(本丸の東の踊り場に建つ戊辰戦争殉難招魂之碑。場所は下にある縄張図を参照。戊辰戦争で官軍として戦った高鍋藩の霊を慰めるため建立された)
戊辰戦争殉難招魂之碑

(本丸。かつては高鍋藩の政庁があった)
本丸

本丸

本丸

本丸

(本丸の南西にある護国神社。かつては奥御殿があった)
護国神社

護国神社

(本丸の西を上がったところにある曲輪。北側の石垣が見事だった)
西を上がったところにある曲輪

西を上がったところにある曲輪

西を上がったところにある曲輪

(護国神社と上記の間にある曲輪。曲輪の段差を利用して作られた滑り台が時の流れを感じさせ哀愁を誘う)
間にある曲輪

間にある曲輪

間にある曲輪

(上記の北にある曲輪。山頂部の南に位置する)
北にある曲輪

北にある曲輪

北にある曲輪

(北東の曲輪)
北東の曲輪

北東の曲輪

北東の曲輪

(山頂の北にある曲輪。秋月氏が来る前の二の丸だったのだろうか)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(西の曲輪と堀切を見に行こうと思ったが荒れていて危険そうだったので止めた)
西の曲輪

(山頂。詰の丸らしいが秋月氏が来る前の本丸に思える)
山頂

山頂

(帰りに寄った本丸から登る道の途中にある曲輪)
途中にある曲輪

途中にある曲輪

(城内から見た高鍋町内)
高鍋町内

(城内の駐車場近くに建つ舞鶴神社。祭神は品陀和気命や土持直綱など。城内七箇所に分けて祀られていたが明治維新後に合祀される。ここが高鍋藩があった頃の二の丸になる)
舞鶴神社

舞鶴神社

舞鶴神社

(三の丸。現在は高鍋農業高校が建っている。ここに濠の一部が残っていた。大手門跡の標柱に行く木橋が不安定で怖かった)
三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

(駐車場から山を望む)
山を望む

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、現地の案内板

感想:指定史跡の基準が分からないですが、町の指定ではなく県か国の指定史跡のような見所のある城でした。駐車場があり比高もなく気軽に見られる良い城ですが、残念ながら詰の丸まで登ってくる人は皆無でした。せっかく整備されているのに勿体ないです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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