●日向 加久藤城
住所:宮崎県えびの市小田(字 城内、廿里)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、虎口、土橋、掘切
標高:284メートル/比高:55メートル
市指定史跡。永禄7(1564)年5月、島津義弘は伊東氏に備えるため久藤城を修築して加久藤城とし加世田(南さつま市)から移る。同年11月に飯野城に移った島津義弘は加久藤城に夫人を入れ、城将には川上三河守忠智を置いた。
永禄11(1568)年、伊東義祐の軍勢が桶比良(えびの市原田)に陣を敷いて飯野城を攻撃しようとする。この時、加久藤(覚頭。えびの市の中央)の農民は伊東軍に味方して村を放火するが島津軍が鎮圧した。元亀3(1572)年の木崎原の戦いでは加久藤城が伊東軍からの奇襲攻撃を受けたが撃退している。
(国道268号沿いに案内がある。その近くには麓菅原天神があった)
(山頂の竈門神社の入口にある大手門跡。下の縄張図の中央になる)
(中央の曲輪の本丸に建つ竈門神社。元亀3(1572)年、城内守護のため島津義弘が勧請したという。自由に取れるミカンは無くなっていた・・・。残念)
(本丸の東の二の丸。縄張図だと本丸の右になる。ここは荒れていたが土塁は確認できた)
(二の丸の南にある広い曲輪と南に突き出た曲輪。倒れた標柱が哀愁を誘う。突き出た曲輪は荒れていたが、土橋があった)
(新城と呼ばれる東の城域に行こうと思ったが柵があって立入禁止になっていた。後で確認したら南の南方神社から行くことができたらしい)
参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、えびの市埋蔵文化財調査報告書第45集 えびの市の城館跡、宮崎県の歴史散歩、「不屈の両殿」島津義久・義弘、現地の案内板、飯野町郷土史、宮崎県神道青年会
感想:竪堀があったらしいですが分かりませんでした。
ここが宮崎県を回った際に最後に行った史跡でした。最後なのだから、もう少しじっくり見ておけば良かったと後悔しています。
加久藤城にいた島津義弘の夫人は、義弘が飯野城下の美女に誘惑されないよう、呪法者に命じて呪いをかけたと伝えられています。このため、飯野地区では美女が生まれなくなったという言い伝えがあります。