日向 日知屋城(船岡城。日向三城及び伊東四十八城の1つ)

●日向 日知屋城(船岡城)
住所:宮崎県日向市日知屋 (字 伊勢道)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、掘切、虎口、石塁
標高:92メートル/比高:89メートル

 伊勢ヶ浜から東に突き出た岬にあり西側以外の三方が日向灘に囲まれている。塩見川の河口部に位置し、日明貿易の寄港地だった細島も北にあり水運を抑える場所にあった。
 築城時期は中世初期という説もある明確ではなく、築城者も伊東氏や土持氏などの説があり明確ではない。『日向記』によれば康正2(1456)年の伊東氏と土持氏が戦った小浪川の戦いで伊東氏が勝利すると、土持氏から日知屋城などが割譲されたとあることから、それまでは土持氏の城だったようだ。文明18(1486)年、日知屋城主・伊東祐邑が大友氏に通じて宗家に謀叛を起こそうとしたため城内で殺害されている。
 戦国時代には伊東氏の城の重要拠点である「伊東四十八城」及び、塩見城、門川城と連携して機能した「日向三城」の一つとなった。天正5(1577)年、伊東義祐が島津義久によって日向から豊後の大友宗麟を頼って落ち延びたため、翌年に宗麟は日向に侵攻する。その際、大友宗麟軍は日知屋城に在陣した。大友宗麟軍が島津義久軍に敗北すると日知屋城は島津氏の所有となる。
 天正15(1587)の九州攻めで島津氏が撤退すると高橋元種の領地となり、慶長19(1614)年に有馬直純が延岡に入り当地を領有すると廃城になった。

(駐車場にある城址碑)
城址碑

(大御神社(手前)と日知屋城(奥の丘))
全景

(西の端の入口にある城門(復元? 模擬?)。場所は下にある縄張図を参照して下さい。ただし東が左になります)
城門

(城門を進むと直ぐにある掘切)
掘切

掘切

(西の曲輪。縄張図だと10の上の辺り。ここから野営の際に兵が利用した囲炉裏跡が発見されている)
西の曲輪

西の曲輪

西の曲輪

西の曲輪

(西の曲輪の北にある曲輪と虎口。縄張図だと2の曲輪の二つ西にある細長い曲輪にあたる)
西の曲輪の北にある曲輪と虎口

西の曲輪の北にある曲輪と虎口

西の曲輪の北にある曲輪と虎口

西の曲輪の北にある曲輪と虎口

(縄張図の1,2,3の曲輪。古代メンヒルという巨石信仰の石があった)
1,2,3の曲輪

1,2,3の曲輪

1,2,3の曲輪

1,2,3の曲輪

(縄張図の5の曲輪。ここが主郭らしく屋形が建っており発掘調査で硯やキセルなどが見つかっている)
5の曲輪

5の曲輪

5の曲輪

5の曲輪

(縄張図の1,2,3と7に挟まれた曲輪だと思う)
挟まれた曲輪

挟まれた曲輪

(縄張図の8の曲輪にある土塁。掘切もあったらしいが分からなかった)
土塁

(縄張図の10の曲輪の先端だと思う。そこから東側を望む)
10の曲輪

10の曲輪

(城域にある鵜戸神社。主祭神は鵜葺草葺不合命など(本来の字は、鵜は慮編に鳥、葺は茲編に鳥)。航海安全などの神社で、ここから海を見た景色が素晴らしく角度によっては昇り龍のように見える(自分は現地で意味が分からず戻ってから気がついた)。宮崎県の観光協会のポスターにも使われていた。行くまでの道が急でかなり危険だった)
鵜戸神社

鵜戸神社

鵜戸神社

鵜戸神社

鵜戸神社

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編

感想:城なので当たり前なのですが迷路のようになっており途中で自分のいる位置を見失ってしまいました。そのため北側にあったという伊東祐邑と兄の祐国の供養塔を見逃しています。
 曲輪や土塁などに説明があり、私のような初心者でも遺構が理解しやすいように整備されています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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