下総 逆井城(逆井氏の居城? 北条氏繁が築城?)

●下総 逆井城
住所:茨城県坂東市逆井(字 城ノ内)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、空堀、濠
標高:19メートル/比高:8メートル

 天神山に築かれた。北には飯沼新田(当時は湿地帯だった可能性がある)、南は西仁連川、西は急崖、東は二重の濠がある。
 享徳3(1454)年、逆井常宗が築城したとされるが、興国4(康永2,1343)年に南朝方の春日顕時に攻め落とされたという説もある。天文5(1536)年、逆井常繁が北条氏康との戦いで戦死し逆井氏は没落した。天正5(1577)年、北条氏繁が築いた飯沼城が逆井城という説もあり、判然としない。
 昭和57(1982)年からの調査をもとに、平成2(1990)年から整備事業が行われ、櫓、門、橋、塀、主殿、二層櫓などが復元された逆井城跡公園となっている。

(門)
門

(櫓や入り江など)
櫓や入り江

(二層櫓、堀、門)
二層櫓、堀、門

二層櫓、堀、門

(観音堂)
観音堂

(堀)
堀

堀

(曲輪と土塁)
曲輪と土塁

(主殿)
主殿

(井楼矢倉)
井楼矢倉

(土塁)
土塁

参考文献:茨城県の中世城館、茨城県の地名、現地の案内板、坂東市観光協会

感想:ここが茨城県の史跡の最後だったので「これで茨城県は終わりか・・・」と思って去った記憶があります。



常陸 麻生城(麻生氏の居城)

●常陸 麻生城(麻生氏の居城)
住所:茨城県行方市麻生(字 要害、後堀)
駐車場:あり
遺構:曲輪、空堀、土塁
標高:24メートル/比高:21メートル

 行方台地の西に位置し、霞ヶ浦に向かって半島状に突き出した台地の丘の上に築かれていた。城下川が霞ヶ浦に注ぐ河口付近にあり、霞ヶ浦を一望できる場所にある。
 平安時代末期、行方地方は常陸大掾氏の一族だった行方忠幹が支配していた。元暦元(1184)年、忠幹の子の景幹が讃岐で行われた屋島の戦いで戦死したため、所領は4人の息子に分けられる。三男の家幹は麻生地区を領し、麻生姓を名乗った。この家幹が麻生城を築いたと伝えられている。
 以降、麻生氏が城主だったが、天正12(1584)年に麻生之幹が、一族で島崎城主だった島崎安定に攻められ落城した。之幹は江戸崎城主の土岐氏を頼って逃げ、麻生城を奪還しようとしたが失敗したとも、あるいは山中で自害したとも伝えられている。天正19(1591)年、常陸の支配を完全に掌握しようとした佐竹義宣によって島崎氏は滅ぼされ、麻生城は佐竹家の家臣が入ることとなった。
 現在、麻生城の跡は羽黒山公園となっている。

(曲輪、土塁、空堀があった。櫓風のトイレもあった)
麻生城

麻生城

麻生城

麻生城

麻生城

麻生城

参考文献:茨城県の中世城館、茨城県の地名、現地の案内板

感想:城に興味がない時に行ったので、どの辺りを撮影したのか全く覚えていないです。



大生郷(おおのごう)天満宮(菅原天満宮。下総 天神山城)

●大生郷(おおのごう)天満宮(菅原天満宮。下総 天神山城)
住所:茨城県常総市大生郷町1234
駐車場:あり

 祭神は菅原道真。延長4(926)年、菅原道真の三男である景行が父の遺骨を筑波山の北麓に埋葬し、延長7(928)年に現在の場所に移したのが始まりと伝えられている。古くは常総市大輪町にある正覚山安楽寺(元三大師)が別当寺だった。
 天正2(1574)年、小田原の後北条氏と下妻城主である多賀谷政経・重経父子が大生郷城を巡って攻防戦を繰り広げる。この時、大生郷天満宮のあった場所も天神山城という出城になっていたため焼失したが、重経が再建した。天正19(1591)年に社領30石が与えられる。大正8(1919)年に再び焼失したため、再建された。
 社宝に絹本着彩御神酒天神画像、御廟天神画像(二つとも茨城県指定有形文化財)などがある。

(一ノ鳥居)
一ノ鳥居

(石段)
石段

(二ノ鳥居)
二ノ鳥居

(天満宮といえば牛)
牛

(社殿)
社殿

(親鸞手植えの杉。倒木した上、大正8年の社殿焼失で類焼した)
親鸞手植えの杉

参考文献:茨城県の地名、大生郷天満宮公式サイト、茨城県の中世城館、水海道市史 上巻、現地の案内板

感想:参拝した時のことを何も覚えていないです。