●下生鎌足神社
住所:茨城県鹿嶋市宮中3354
駐車場:不明
祭神は中臣(藤原)鎌足、菅原道眞、宇賀御魂命。創建年代は不明だが、近世には創建されていた。鎌足の父は鹿島神宮の神官で勉学のため都にいたが、鹿島に妻を伴って帰郷した際に鎌足が産まれたという。
(祠。鎌足の母が白狐の夢のお告げで鎌を授かったことから、御神体が鎌とのこと)
参考文献(Webサイト):茨城の民話Webアーカイブ、鹿嶋市ホームページ
感想:一般的に鎌足の生誕地は奈良県橿原市らしいです。
●下生鎌足神社
住所:茨城県鹿嶋市宮中3354
駐車場:不明
祭神は中臣(藤原)鎌足、菅原道眞、宇賀御魂命。創建年代は不明だが、近世には創建されていた。鎌足の父は鹿島神宮の神官で勉学のため都にいたが、鹿島に妻を伴って帰郷した際に鎌足が産まれたという。
(祠。鎌足の母が白狐の夢のお告げで鎌を授かったことから、御神体が鎌とのこと)
参考文献(Webサイト):茨城の民話Webアーカイブ、鹿嶋市ホームページ
感想:一般的に鎌足の生誕地は奈良県橿原市らしいです。
●雨引山楽法寺(雨引観音)
住所:茨城県桜川市本木1
駐車場:あり
真言宗。本尊の木造観世音菩薩立像(国重要文化財)。坂東観音霊場第二十四番札所。用明天皇2(587)年、梁(中国の南北朝第三の王朝)から帰化した法輪独守が開山した。推古天皇の平癒祈願が叶ったことから勅願寺となり、聖武天皇と光明皇后の安産祈願が叶ったことから安産祈願の根本道場となる。また嵯峨天皇の降雨祈願で全国に雨が降ったことから雨引山の山号を与えられた。
その後、鎌倉幕府6代将軍である宗尊親王、足利尊氏、徳川家康、徳川吉宗など時の権力者から崇敬を受けている。
寺宝に絹本着色愛染明王画像(県指定文化財)などがある。
(山門。真壁城の城門だったと伝わる)
(建長6(1254)年に宗尊親王が建立し江戸時代に再建された仁王門。県指定文化財である)
(子安地蔵堂。上記と同じく宗尊親王が建立した。安置されている地蔵菩薩は子供の夜泣きや疳の虫(原因の分からない病気)に御利益があるらしい)
(県指定文化財の多宝塔。嘉永6(1853)年に建てられ、大正10(1921)年に屋根を木羽葺から銅板にしている)
(東照山王権現社。当寺が徳川家康から寺領150石を与えられたことを感謝し東照大権現社を建立した。しかし傷みが激しくなってきたため享保12(1727)年に山王大権現社と合祀し新造している。東照大権現社に祀られていた家康公坐像は市指定文化財である)
(家康から10万石の待遇を受けた際、その勢威を誇示するため石垣を築造したらしい。その石垣かな、と思って撮影した)
参考文献:茨城県の地名、茨城の文化財 第16集、現地の案内板、雨引観音(雨引山楽法寺)公式サイト(http://www.amabiki.or.jp/)
感想:あじさいの名所だそうです。訪問したのが12年前なので何も覚えてないですねえ…。
●寿亀山天樹院弘経寺(ぐぎょうじ)
住所:茨城県常総市豊岡町甲1番地
駐車場:不明
浄土宗。本尊は阿弥陀如来像。応永21(1414)年に創建されたという。天正5年(1577年)、北条氏と多賀谷氏の戦いで多賀谷氏が陣を構えたため伽藍が焼失し九世・存把は寺宝を携えて結城を去る。文禄4(1595)年、徳川家康の次男・結城秀康が息女の松姫の供養を存把に行ってもらった縁で結城市に弘経寺を再建した。
そのため常総市の弘経寺は無住の状態が続き苦境に立たされるが、十世・照誉了学に帰依していた千姫が菩提寺と定めたことから江戸幕府の援助を受け、土井利勝が普請奉行を務め寛永10(1633)年に再建している。江戸幕府が定めた浄土宗の学問所である関東十八檀林の一つになるほど隆盛を極めた。明治39(1906)年に伽藍・庫裡の一部が焼失する。
寺宝に千姫の持仏として伝わる金銅阿弥陀如来立像(市指定文化財)、千姫の孫・奈阿姫が千姫の供養のため書写して奉納した紺紙金泥阿弥陀経(市指定文化財)、千姫姿絵(市指定文化財)、千姫遺愛の品と伝わる葵紋付五條袈裟などがある。
(千姫御廟。長らく遺髪が納められていると伝わっていたが、平成9(1997)年の保存修理の際に遺骨が見つかっている)
参考文献:現地の案内板、茨城の寺2、茨城の寺4、弘経寺公式サイト
感想:山門などを見逃していることに記事をまとめていて気がつきました。