毛利隆元逝去の地(火葬した場所)

●毛利隆元逝去の地
住所:広島県安芸高田市高宮町佐々部
駐車場:なし

 永禄6(1563)年、毛利隆元は大友氏の講和成立により、尼子義久と戦っていた父・毛利元就の命で周防を出発して出雲に向かおうとしていた。しかし途中、当地にあった蓮華寺に滞在し和智誠春の饗応を受けた後、8月4日に急死する。遺体は蓮華寺前で荼毘に附された後、吉田郡山城内の寺に葬られた。
 月日が経つに従い火葬場に田畑が混入する可能性が出てきたため灰塚が建てられる。だが灰塚も風雨で倒れてしまい、嘉永5(1852)年に地元の有力者らが石壇を造り灰塚を安置した。

(入口。民家の中にあるような場所だったので声をかけて参拝した)
入口

(灰塚)
灰塚

灰塚

参考文献:広島県の地名、高田郡史 上巻

感想:近くに沐浴石や湯灌(死体を棺に納める前に、湯で洗い浄めること)石と呼ばれる、隆元の遺体を湯灌した大きな平たい石もあったそうですが、気がつきませんでした。


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願王山地蔵院(本因坊秀策の墓)

●願王山地蔵院(本因坊秀策の墓)
住所:広島県尾道市因島外浦町795
駐車場:不明

 曹洞宗。慶安元(1648)年(応安元(1368)年とも)に創建されたという。

(塀)
塀

(山門)
山門

(本堂)
本堂

(三界万霊塔)
三界万霊塔

(本因坊秀策の墓。秀策は近世後期に当地で生まれ、囲碁の棋士として江戸で活躍した。近代の布石の基礎を築いた天才だった)
本因坊秀策の墓

参考文献:因島市史、広島県の地名、本因坊秀策囲碁記念館

感想:お寺の歴史がほとんど分かりませんでした。囲碁もあまりやったことがなかったので秀策のことも名前くらいしか知りませんでした。



浄土寺(足利尊氏の供養塔)

●浄土寺(尾道市)
住所:広島県尾道市東久保町20-28
駐車場:境内の東側に駐車許可スペースあり

 真言宗。推古天皇24(616)年、聖徳太子が創建したと伝わる。鎌倉時代には荒廃したが、永仁6(1298)に西大寺の叡尊の弟子・定証が一夜を過ごした際、住民の願いにより当寺に移って再興を発願し尾道浦の豪商・光阿の財力などを借りて実現した。正中2(1325)年に伽藍が全焼したが、尾道浦の道蓮・道性夫婦が大願主となり資材を集め、貞和元(興国66、1345)年に大半が再興している。
 南北朝時代には両勢力から対岸の因島地頭職が与えられるなど重要視されたが、室町幕府や守護の山名氏の力が衰えると在地領主の杉原氏・宮氏・山内氏・小早川氏などに寺領を荒らされ収入が減少した。毛利氏が備後を抑えると収入も安定したが、関ヶ原の戦い後に備後を支配した福島氏によって寺領を没収され、続いて浅野氏が備後を支配すると僅かながらの寺領を与えられるのみになる。そこで尾道の豪商などが檀那となって存続した。
 多くの伽藍や本尊の木造十一面観音立像などの寺宝が県や国の文化財に指定されている。

(駐車場になっている場所のそばに建つ鎮守神の丹生神社)
丹生神社

丹生神社

(子安堂)
子安堂

(向かって左が足利尊氏の供養塔で右が足利直義の供養塔。九州に落ち延びる途中の尊氏が当寺で戦勝祈願を行い九州で菊池武敏に勝利し、上洛の際にも再び戦勝祈願をして楠木正成を破っている)
供養塔

(多宝塔と阿弥陀堂)
多宝塔

多宝塔

阿弥陀堂

(本堂)
本堂

(山門と、そこから見た瀬戸内海方面。2号線との間には山陽本線が走っている)
山門

瀬戸内海方面

(痛風などに効能がある観音霊泉)
観音霊泉

感想:尾道なので幅の狭い坂を登っていかないといけないことから車で行くのに苦労しました。